第32話『麗奈の願い』

 藍沢家の屋敷に戻ると、未来さんが出迎えてくれた。そして、お嬢様からの伝言で、僕は無事に執事に戻ることが許された。

 そして、僕が持ち出した荷物が自分の部屋に戻っていた。もしかしたら、莉央は最初から僕が執事に戻るという決断をすると分かっていたのかもしれない。

 荷物を全て片付け、お嬢様は仕事があるようなので未来さんと二人で彼女の作った夕ご飯を済ませた。

 やがて、お嬢様が帰ってきたのだが僕のことを気遣ってか部屋で休むように言った。お嬢様も色々と捜査官のとしての仕事があって疲れているのだろう。

 そこでお嬢様から、僕の推理どおり麻衣さんの制服や靴から薔薇の花粉がついており、現場に落ちていた薔薇の花粉と一致したことを聞かされた。そして、微量ではあるがベストに片桐さんの血痕も付いていたらしい。

 僕はゆっくりとお風呂で疲れを取って、あとは寝るだけとなった。電気を消して、僕はベッドの上に仰向けの状態になる。

「そういえば、こうしているときに地震が起きたんだよなぁ」

 ちょうど1週間前の夜、地震が起こった。

 思えばその地震で今回の事件を解決することができたんだ。茜色の館のトイレに飾られている全ての鉢が落ちたからこそ、新しく飾られた薔薇の花粉を根拠にして麻衣さんに自分の罪を認めさせることができたんだ。

 そして、稲葉君はその地震が原因で水道管が破裂したことが事の始まりとなり、犯人だと間違われてしまうことになってしまった。

 地震がなければどうなっていたのは分からないけど、現状よりも良くなることは決してないと思う。何よりもこうしてお嬢様の執事になれたんだから。

「……由宇、起きてる?」

「お嬢様?」

 部屋のドアの方を向くと、そこには枕を持ったお嬢様がいた。髪を下ろしピンクのワンピースの寝間着を着ている。

「どうしたんですか? 枕なんか持って」

「寒いから一緒に寝てもいいかなって思っただけよ。それだけなんだからね」

 理由はともかく一緒に寝たいのか。

 う~ん、一昨日と昨日の莉央といい今のお嬢様といい、僕に対して警戒心がなさ過ぎるんじゃないかと思う。

「お嬢様が寝たいと言うのなら、僕は構いませんけど」

 断ったらまたお屋敷から追い出される羽目になりそうだし。まあ、お嬢様は僕に変なことをする気はないと信じているけど。

 お嬢様は僕の枕の横に自分の枕を置き、僕の方を向いて横になる。

 二人で寝るには狭いベッドの上で互いに向き合っているせいか、お嬢様の顔がとても近く吐息が肌で感じられる。

「今日はありがとう。由宇達がいなかったら事件はきっと解決できなかったと思うから」

「いえ、お礼を言われるほどではありません。僕達はただ……真実を見つけたいと思ってやっていたことですから」

「それでも、高梨麻衣とまともに渡り合えていたのは由宇だけだった。あたしなんて、何の証拠もなしに自分の推理を言っただけで……」

 もう、何人の人の涙を僕は見たのだろうか。

 今日はもうないと思っていたのに、それは突然にやってくる。お嬢様の目からは涙が溢れ出し、その涙はベッドのシーツまで軌道を描くように落ちてゆく。

「自分自身が情けなくて、特別捜査官だって偉そうにしてたけど……もう、そんな身分を言える自信がない」

 お嬢様はきっと今回の事件を通し、何事も一筋縄ではいかないと思い知らされたのだろう。

「お嬢様は今までの僕のイメージとは違って、少し情けないようにも思えました。しかし、それは何事にも疑ってしまって、全てを1人でやろうとしてしまうからそのような結果になってしまったんです」

 ここで助け舟を出してはいけないと思い、僕はそう言った。

「じゃあ……どうすればいいの?」

 もはや、今のお嬢様が普通の女の子にしか見えない。藍沢家のお嬢様、という特別な雰囲気は感じられなくなっている。

 僕は昨日のお嬢様との電話を思い出した。

「……もう既に答えは出ているじゃないですか。他の人と一緒に事件に向かっていけばいいんです。それに、昨日……電話で言ってくれたでしょう? 僕を信じて、一緒に真実を見つけようと」

「一緒に真実を……」

 そう言うと、お嬢様は不安そうな表情を露にする。お嬢様がどうしてそんな態度になってしまうのかには心当たりがある。

「お父様のことですか?」

 そう言うとお嬢様の目が見開いた。やはり予想は的中だったようだ。

「……未来から聞いたの?」

「ええ。旦那様が亡くなった理由は……誰かに殺されてしまったからですよね」

「そうよ。お父様はどんな人に対してもまずは信じてみようとする人だった。まるで、由宇みたいに。あの日もお父様は普通に仕事で出かけに行ったの。また、夜になったらお仕事のことでも何でも話せる時間が来ると思ってた。学校の授業中に、先生が突然あたしのところに来てお父様の死の知らせを受けた」

「確か、担当していた裁判が始まる直前だと……」

「そう。その裁判に関わる人を警察は捜査していたけど、犯人は逮捕される前に自ら命を絶ってしまった。お父様を殺した償いとは言っていたけど、今でもスッキリしないの」

「そう、ですよね……」

「あたしはお父様が亡くなってから、人のことを信じることが怖くなった。お父様は人を信じたからこそ殺されたと思ったから。だから、あたしは人を疑うようになった。人を常に疑っていれば危険な目には遭わないと思って……」

 お嬢様は逆に人を恐れていたからこそ、あんな不機嫌な態度を普段から取って……他人を寄せ付けないようにしていたのか。

「でも、由宇だけは……信じてもいいかなってずっと思ってた。お父様の親友である由宇のお父様についてはたまに聞かされていたから。それに、小さい頃に由宇と会った時……今でも変わらない優しい目が印象的で」

 お嬢様はそう言ってくれるけど、僕は全く覚えていないんだよな。本当に申し訳ないんだけど。小さい頃のことでもはっきりと覚えているということは、それだけお嬢様にとっては印象的なものだったんだと思う。

 すると、お嬢様は僕の胸の頭をつける。

「……だから、離れないで」

「お嬢様……」

「物凄く自分勝手だって思われたっていい。他の誰かとデートに行っても、他の誰かが好きになっても……最後には必ずあたしの執事としてここにいて。あたし、由宇だけには……不安なときに必ず一緒にいて欲しいの」

 お嬢様は僕の寝間着をぎゅっと掴む。

 今の言葉が、今日帰ったときの莉央の言葉と重なる。お嬢様は僕を必要としてくれているんだ。きっと、執事としてだけではなく人としても。

「……僕はお嬢様の執事に戻りたいと思ったから、ここにいるんですよ。だから、お嬢様の側にずっといます。至らない点は多いとは思いますが、そんな僕でも良ければ……僕のことを信じてください。僕もお嬢様のことを信じますので」

 それが僕の答えだ。

 すると、お嬢様は手を僕の背中に回して……さらに体を密着させる。華奢な体から彼女の匂いと温もりが僕に優しく伝わってくる。

「信じる……に決まっているじゃない。だって、このあたしが……初めて自分の執事にしたのよ。信じないって言ったら、主として面目が立たないわ」

「そうですか」

 まったく、可愛い照れ隠しだ。

 僕は右手でゆっくりと布団をかける。そして、そのままお嬢様の頭を撫でる。ナイフの切り傷のせいで少し痛いけれど、そんなことは関係ない。

「おやすみなさい、お嬢様」

 僕はそう言うが、既にお嬢様から可愛らしい寝息が聞こえていた。

 お嬢様も色々なことがあって疲れているのだろう。今夜はゆっくりとお休みになってください。

 僕もすぐに眠りにつくのであった。

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