第31話『由宇の決断』

 僕、莉央、稲葉君は小湊市内の住宅街を歩いていた。しかし、僕らは一言も言葉を発することもなく、家が近いというだけで一緒に帰っているように思える。僕らの影は何も形を変えることなく、時間経つに連れて縦に伸びていく。

 最後は丸く収まったが、それでも僕達は1つの殺人未遂事件の真実を間の当たりし、目の前で罪を犯してしまった人を追い詰めたのだ。全てが終わったからこそ、僕達のやったことがいかに重大であって、危険であるかを思い知ることになった。

 5月としては寒い空気の中、僕達はただ歩く。

「……あっという間だったな、思ってみれば」

 そう話を切り出したのは稲葉君だった。

「地震があって、腹にナイフが刺さっていた片桐を見つけて、警察に捕まって、藍沢が助けてくれて、真実を見つけて、今か。こんな充実した一週間なんて、この先一生体験できないだろうな。もう、体験したくねえけどさ」

「……僕は地震の所為で大怪我して、それがきっかけで執事になったんだよな」

 おまけにこの右手の怪我である。ちなみに、右手は莉央が治療をしてくれて今は包帯が巻かれている。その時はやけに莉央が嬉しそうにしてくれた。

「俺はこれで普段の生活を謳歌できるぜ」

「良かったね。これでサッカー部のエースも復活ってわけだ」

「……ああ。これも進堂や藤原のおかげだし。何よりも藍沢のおかげなんだよな。今でもあいつが助けてくれたのが信じられねえけど。もしかしたら、お前が執事になってから変わり始めたんじゃねえか?」

「そうなのかな……」

 と言いつつも、思い当たる節は幾つもある。

 何よりも確かな証拠無しに稲葉君を助けたことが大きいよな。それに、麻衣さんに披露した推理を裏付ける証拠もろくになかったようだし。元々あった完璧なイメージを払拭するようなことがこの1週間で何度も見てきた気がする。

「それだけ由宇ちゃんの影響が大きかったんじゃないかな。だって、あの藍沢さんが由宇ちゃんを執事にするんだよ。それ相応の理由があるんだと思うけど。由宇ちゃんは何か心当たりはないの?」

「……僕の父さんとお嬢様のお父様が学生時代の友人だった、としか。それも、お嬢様の執事になって初めて知ったことなんだけど」

 本当はそれ以上の理由を未来さんから聞いているけど、今は親同士が知り合いだったからということにしておこう。

「それは初耳だね。由宇ちゃんのお父さんってそんなに偉かったっけ?」

「いや、普通の公務員だったけど。藍沢家は政界や法曹界に影響を及ぼす財閥だし、父さんは法学部出身だからね。そこで知り合ったんじゃないかな」

「それなら進堂の親父さんも言ってくれれば良かったのにな。何でそのことを教えてくれなかったんだろう」

「さあ……僕には分からないな。それに、今はこうして知っているわけなんだから、そのことは考えないようにするよ」

 稲葉君の言うことはもっともなんだけど。

 僕の推測としては、あまり友人を自慢したくなかったんじゃないかと思う。父さんの性格からして。

「じゃあ、俺はここで違う道だから。こういう風に言うのは不謹慎かもしれねえけど、お前等と一緒に事件の捜査をしてみて楽しかったぜ」

「……私も同じだよ。ね? 由宇ちゃん」

「そうだね。チームワークの勝利って感じだったかもしれないね。もちろん、お嬢様を含めてだけど」

「さすがは藍沢家の執事だな。そういや、その執事服……結構似合ってるぜ。やっと男前に見えてきた」

「……稲葉君だけはそういうことを言わないと信じてたんだけど」

 結局、みんな1度は僕のことを女の子みたいだと思うのか。

 生きていくための最低限の機能以外は男っぽさがないんだよね。まあ、辛うじて背だけはそこら辺の女子よりかはあるけれど。

 でも、何時かは女子らしい部分を受け入れなければならないのか? 麻衣さんと出かけた日にはお嬢様にワンピースを着させられたし。

 いや、今……稲葉君が男っぽく見えてきたって言ってくれたんだ。まだまだ希望の光を捨てちゃいけないと思うことにしよう。

「あははっ、ごめんな」

「……さっきの言葉は有り難く受け取っておくよ」

「そうか。じゃあ、また明日な!」

 最後は爽やかな笑みを浮かべ、稲葉君は足早く帰っていった。

 彼からのまた明日、って言葉を聞くために僕やお嬢様は頑張ってきたわけだから、何だか彼の後ろ姿が感慨深く思えてしまうのであった。

 莉央と2人で再び歩き始める。

 稲葉君がいなくなった所為か分からないけど、さっきよりも歩幅が短くなって、歩く速度も遅くなった気がする。

 再び口に出す言葉がなくなって、無言のまま莉央の家まで辿り着く。

「……由宇ちゃん」

 家の門の前で莉央は立ち止まる。

「これからどうするのか決めたの? もし、藍沢さんの執事に戻るなら、帰るところはここじゃないよ」

 一昨日の夜に訊かれたこと。

 あの時には結局、うやむやにしてしまったが……今、ここで訊かれては答えないわけにはいかない。

「……決めたよ。僕は麗奈お嬢様の執事に戻る」

「そっか……」

 莉央は少し上を向きながら、必死に涙がこぼれ落ちないようにしている。

「やっぱり、戻っちゃうんだね」

「……何故なのかは分からない。でも、お嬢様はきっと……僕を必要としてくれている気がするんだ」

「由宇ちゃんを必要としているのは私だって同じだよ?」

 莉央の震える声が僕をできるだけここに留まらせようとしているように思える。

「……私は由宇ちゃんの隣にいたいって気持ち変わってないよ。由宇ちゃんは私のこと、必要だとは思ってないのかな?」

「……僕にはみんなが必要だよ。お嬢様も莉央も、稲葉君も……みんながいて今の僕がここにいるんだ。その中で誰が1番、僕にとって必要な人なのか決めることが今はまだできない。こんな曖昧なことしか言えなくてごめん」

 まさにその通りだった。

 莉央は僕に対して確固たる気持ちがあるのに、僕はまだそんな段階まで達していない。お嬢様も莉央もどちらも同じくらいに大切に思っている。その気持ちが確かであると分かっていたから僕は迷っていた。けれど、

「地震があったとき、お嬢様は僕のことを助けてくれた。僕の知らない所でお嬢様は僕のことだけは信じてくれていた。僕はお嬢様の執事としてその信頼に応えたいし、それがきっと僕のできるお嬢様への恩返しだと思うから」

「そう、なんだ……」

「……だから、僕はお嬢様の執事としてこれから生活していくつもりだよ。莉央の期待に応えてあげられなくてごめんね」

 僕は深く頭を下げた。

 そして、気づけば僕は柔らかい感触の中にいた。同時にほんのりと温かい。莉央が優しく抱きしめているのだ。

「私にとっての期待って、今……こうしている時間なんだよ。元気に由宇ちゃんと会うことができて、楽しい時間を少しでも共有することができて。執事になっても、私はそういうことってできるんだよね?」

「もちろんだよ。僕も同じ気持ちだって」

「だったら、私は全然辛くないよ」

 その言葉とは反対に僕の頭に莉央の涙が伝わってきている。それでも十分に強いと思うよ、莉央は。

「それに、由宇ちゃんの執事服姿……かっこいいからもっと見ていたいもん。執事に戻る決心がついたなら、1日でも長くこの姿を私に見せて。これが執事に戻ったときの私との約束ってことでいいかな?」

「分かったよ」

 莉央の腕から解放され、頭を上げるとそこには普段の莉央の優しい笑顔が確かにあった。

「じゃあ、また明日ね。由宇ちゃん」

「……また明日」

 莉央は右手を小さく振った。

 僕が見えなくなるまで莉央がずっと手を振ってくれるのは昔から変わることのない風景。だけど、今日からは帰る場所が違う。

 僕の帰る場所、そこは――。

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