第17話『麻衣の苦悩』

 ――ごめんね。

 麻衣さんの声は罪悪感に押しつぶされそうな弱々しい声だった。

「進堂君にこんなに良いことをしてもらって、楽しく話して……」

 麻衣さんの声も、フォークを離した彼女の右手も震えていた。

「私、今……彼氏がいるの。進堂君には誤解させないようにしようって心がけていたんだけれど、私の方が進堂君と一緒にいることがいつの間にか自然に思えてきちゃって。進堂君が女の子の格好をしているからっていうのもあるかもしれないけど。でも、もし進堂君も同じ気持ちだったらどうしようと思って。だから、本当にごめんなさい」

 ついに、その話が来たか。

 未来さんにも真宵さんにも、捜査は考えずに麻衣さんと一緒に個展を楽しんで欲しいと言われた。僕は正直、無駄なことをしているんじゃないかとも思えた。

 でもまさか、お嬢様はこのことまで考えていたのか? 僕と楽しむことで麻衣さんに恋人への罪悪感を募らせ、僕に恋人がいることを打ち明けると。

 だとしたら、僕も……麻衣さんに謝らないといけない。麻衣さんに心苦しい思いをさせてしまったのだから。

 でも、今は捜査だ。ここで謝っては麻衣さんに本当の目的がばれる可能性がある。

「……そんなこと、僕はいいですよ」

「だ、だって……!」

「僕にとって大切なことは、真宵さんの作品が好きな麻衣さんと一緒に個展に行けたこと。そして、それを楽しんで貰えたことです」

 そう、実際には今日のことは無駄じゃなかった。

 麻衣さんとは捜査をする、されるの関係以前に、緋桜学院に通う同級生であり友達同士なんだ。一緒に楽しい時間が過ごせれば、僕としてもこれ以上に嬉しいことはない。

「真宵さんと会ったときの麻衣さんは凄く楽しそうでした。誘った身として本当に満足しているんです。それに、こんな素敵なお店でここまで美味しいナポリタンを頂けたことは個人的に嬉しいですよ」

「だ、だけど……」

 そういうことを言っているんじゃないんだ、と麻衣さんは言いたそうである。

 もう、ここまで来ればこちらから話を切り出しても大丈夫かな。

「……でも、麻衣さんは時々、笑っている裏で何かを考えているように見えました。それはきっと、麻衣さんの彼氏さんのことではありませんか?」

 どうやら的を射たらしく、麻衣さんの目が見開いた。

 僕が時々感じていた、麻衣さんの笑顔の違和感。

 どうやら、その原因は失踪した彼氏にあるらしいな。そして、時間が経つにつれて募る自責の念。僕にアクセサリーをくれたときにも、小湊市に戻ってきて手を繋いだときにも麻衣さんは自分を責めていたんだな。彼氏がいるのに他の男子を楽しんでしまう自分に。


「……そう、だよ」


 ようやく、麻衣さんの口が開いた。

 麻衣さんに彼氏がいることも、その人が原因で悩んでいることも分かった。ここは少し危ないかもしれないけれど、賭けだ。

「もし、よろしければ……その彼氏さんのこと、僕に話してくれませんか? どうやら、麻衣さんは……僕と一緒にいること以外にも悩みの種がありそうな気がします」

 僕はそう言って、カプチーノを一口飲む。

「僕は藍沢家の執事です。ですが、執事というのは時に……主以外の方でも困っていれば助ける人であると僕は思っています。それに、あなたは真宵さんに約束してくれたでしょう? 僕と友達でいてくれると」

「友達……」

「ええ。友達だからといって全てを話せと言うつもりはありません。でも、もし麻衣さんに何か悩み事があるなら、僕は麻衣さんの友達としてあなたの力になりたいんです」

 これは、僕の本当の気持ちだ。それを事件の手がかりを引き出すために言っている自分が悔しいけれど。

 麻衣さんは下唇を噛む。そして、目から涙がこぼれ出す。

 それを必死に服の袖で拭おうとする麻衣さんに、僕は何も声を掛けられなかった。手を差し伸べるようなことを言っても、彼女を追い込んでしまうような気がして。

「……話すね」

 数分ぐらい経っただろうか。麻衣さんは僕に彼氏さんのことを話す決心をしてくれた。

 麻衣さんの彼氏さんの名前は永瀬和也ながせかずや君。僕と同学年で2年5組に在籍している男子生徒。真面目で優しいらしい。

 1年生の時に同じクラスだった永瀬君と付き合い始めたのは、去年の秋からだそうだ。休みの日には今日の僕みたいに一緒に出かけることが多いのだとか。

「とても優しい彼氏さんじゃないですか」

「うん。一緒にお買い物に言ったり、映画を観に行ったり。1回だけだけど、瀬崎現代美術館にも行ったことがあるの」

「そうだったんですか」

「私、その時から……天草さんの大ファンだって言ってたの。茜色の館のデザインが天草さんだってことを伝えると、オープンしたら一緒に行こうって約束してくれたんだ」

「それで、永瀬君とは一緒に行けたのですか? 確か……茜色の館には既に行ったと真宵さんにも言っていたと思いますが」

「……1人で行ったんだ」

 それは何だかおかしいな。

 彼氏……永瀬君に何事もなければ、麻衣さんは1人で行くはずがない。オープンしたら一緒に行こうと約束したほどだ。

 もしかしたら、麻衣さんには永瀬君と一緒に行くことを諦めざるを得なかった理由があるみたいだ。失踪した、というのもきっとここにあるはずだ。

「彼氏さん……永瀬君に何かあったのですか?」

「……最近、疎遠になってるの」

「疎遠に?」

「うん。最初は別々のクラスになったからだと思ったの。必然的に会える回数が減るわけだからね。勝手にそう思い込んでた」

「最初、というと何か別の理由が分かったのですか?」

 僕がそう訊くと、麻衣さんは思わしくない表情を見せる。


「……友達から聞いたの。和也君が片桐さんと一緒に帰るところを見たって」


 ここで、被害者である片桐さんの名前が出てくるのか。お嬢様の聞いた噂は段々と真実味が増してきている。

「でも、もしかしたら今日の僕と麻衣さんみたいに……」

「違うのっ!」

 麻衣さんは血相を変えて声を荒げたが、すぐに俯いてしまう。

「ごめんね、進堂君は何も悪くないのに……」

「気にしないでください。しかし、今の反応だと……麻衣さんはこう思ったんですか。永瀬君と片桐さんは付き合っているのかもしれない、と」

 僕が言うと、麻衣さんは頷いた。今にも泣きそうな表情をして。

「しかし、そのお友達の一言だけで信じてしまうのですか?」

「だって……片桐さんと一番仲良くしている人なんだもん。日比野楓ひびのかえでっていう女の子なんだけど。彼女は片桐さんと幼なじみだし」

「その幼なじみの日比野さんが言うのだから間違いないと」

 つまり、恋人関係にあった永瀬和也君が今年の4月になって突如疎遠となり、その理由が片桐さんと付き合い始めたことにある、というわけか。

「でも、麻衣さんは納得いかなかったはずですよね。それは、突然のことでしたから」

「うん。……でも、なかなか理由を聞き出せなかった。和也君にも、片桐さんにも」

「それで、そのまま今日まで来てしまったのですか?」

「違うっ! 和也君は……突然、学校に来なくなったの」

「それは何故でしょう? 何か病気でも?」

 麻衣さんは悔しそうに首を横に振った。

「それが今でも分からないの。彼、1人暮らしだし……実家に連絡をしても、何も和也君のことは聞いていないって言うし……」

 そんな状態が続いたから、お嬢様に……麻衣さんの恋人が失踪したという噂が流れ込んできたのか。

 麻衣さんが犯人なら、立派な動機が見つかったな。

 永瀬君が失踪した理由も片桐さんが絡んでいるんじゃないかと思っているんだ。片桐さんをナイフで刺す理由として十分だろう。

「……ねえ、進堂君」

「なんでしょう?」

「……茜色の館で片桐さんが襲われた事件があったよね。昨日の体育の時間にそのことは話したっけ」

「ええ」

「……もしかして、私のこと……疑ってる?」

 麻衣さんの目が真剣だ。僕を一直線に見ている。

 まさか、今日の本当の目的がばれたのか? 確かに昨日も事件のことを話したし、今も行方不明になった麻衣さんの彼氏についても話したし……麻衣さんが感づいたというのもあり得る状況だ。

 どうする、正直に話すか?

 でも、仮に麻衣さんが犯人だとしたら、僕やお嬢様の掴んでいない証拠が隠滅される可能性がある。僕個人で迂闊な判断はできない。

 僕がなかなか話せない状況の中、麻衣さんの表情が柔らかくなり、

「冗談だよ」

 と、麻衣さんは笑いながら言う。

「まさか……こんなに真剣に考えてくれるなんて思わなかったから。ごめんね、とんでもないことを訊いちゃって。いくら藍沢さんの執事でも、茜色の館で起きた事件のことなんて分かるわけないか」

 何だ、冗談だったのか。

 さっきの雰囲気、只事じゃない感じだったから……本気で訊いたのかと思ったよ。思わず安堵のため息をついてしまう。

 そして、麻衣さんは両手で僕の手を掴み僕のことを見つめながら、

「でもね、私は片桐さんを刺すようなことなんてしてない。私にはそんなことできないよ。進堂君、私の言うこと……信じてくれる?」

 と、静かに言う。

 今の麻衣さんは特に媚びているようにも思えないし、さっきのように冗談だって笑いそうな雰囲気も感じられない。

 疑っているかどうかはともかく、信じるかどうかは僕が独断で決めてもいいよね。信じることは悪いことじゃないんだから。

「信じます。麻衣さんが本当のことを言っているのなら」

 それが、僕の答えだ。どんな人でも、まずは無実であることを信じたい。ありもしないことで疑うよりもずっと良いと思っている。

 僕の言葉に安心したのか、麻衣さんの表情がぱっ、と明るくなった。

「ありがとう。進堂君に話せて良かった気がする」

「そう言ってもらえると僕も嬉しいです」

 そうだ、これでいいんだ。

 麻衣さんと片桐さんの間には、永瀬和也という1人の男子生徒を介して深い繋がりがあったということを認識しておけば。

 その後、僕と麻衣さんは1杯、紅茶を楽しみ、夕暮れの中帰るのであった。

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