第16話『ダン・ディモア』

 その後すぐに、僕と麻衣さんは真宵さんと別れた。

 そして、瀬崎現代美術館を出るのだが……この先のプランを全く立てていない。

 正直な話、お嬢様からかかるプレッシャーの所為で緊張してしまい、美術館に行くこと口実にして麻衣さんと一緒に過ごすことしか頭になかったのだ。

 さて、これからどうしようか。

「進堂君、凄く楽しかったね」

「僕も楽しかったですよ」

「天草さんに会えて感動しちゃった。あんなにたくさん話せたし……これも全部、進堂君のおかげかな」

「いえいえ、きっと麻衣さんの真宵さんに対する気持ちがこのような結果をもたらしてくれたのでしょう」

「そんなこと言って、本当は天草さんと会う約束をしてたんじゃないの?」

 ふふふっ、と笑いながら麻衣さんは言った。

 実際、真宵さんは僕と麻衣さんに会おうとしていただろう。お嬢様から僕の女装のことを聞いていたわけだし。

「神様が麻衣さんに微笑んでくれたんですよ、きっと」

「……ふ、ふうん。結構ロマンチックなこと言えるんだね。さすがは天草さんの甥っ子だけはあるね」

「それはあまり関係ないと思いますけど……」

 と、僕は苦笑いをするしかない。

 それからはお互いに言葉を交わさないまま、瀬崎駅に着いてしまった。

 この先はノープランだけど、どこかでゆっくりとできる所で麻衣さんと話したい。さて、どうしていこうか。

「麻衣さん、これからどうします? もういい時間ですし……どこかゆっくりと食事ができる場所でも行きましょうか?」

 時刻はもう午後1時過ぎだった。真宵さんの解説や、麻衣さんと真宵さんの話が盛り上がったこともあって、あっという間に時は流れてしまったようだ。お腹もかなり空いてきた頃合いである。

「うん。実は……1度、行ってみたかったお店があるんだけど」

「それなら、今から行ってみましょうよ。麻衣さんがどのようなお店が気になっているのか少し興味がありますし」

 麻衣さん自ら希望する場所があるのは非常に有り難い。僕に任せると駅の近くにある喫茶店になってしまうし。

「そう言われると、何だか恥ずかしくて行く気なくなっちゃうな……」

「ごめんなさい」

「冗談だって」

 冗談だったんですか。

 不機嫌な雰囲気から一転して笑顔を見せられると、尚更可愛く感じられる。特に麻衣さんの場合は。

「でも、進堂君と一緒に行きたいって思っていたお店なの。まあ、喫茶店なんだけどね」

「そうですか。ちなみにその喫茶店はこの近くにあるんですか?」

「ううん、小湊駅の近く。先月にオープンしたばっかりで。駅の近くだけど意外と落ち着ける場所らしいよ」

 色々と話を聞くのにうってつけの場所だな。

「なるほど。では、まずは電車で小湊駅まで帰りましょうか」

「うん。そうしよっか」

 僕と麻衣さんは10分後にやってくる各駅停車の電車に乗り、小湊駅に戻るのであった。



 午後1時30分。小湊駅前。

 意外と早く小湊の地に戻ってきた。駅前の広場も昼過ぎなので麻衣さんを待っていた今朝よりも人が多い。特に男女のカップルが多いな、やっぱり。

「朝よりもずっと多いですね」

「お昼過ぎだけど、今日は日曜日だしね。でも、カップルが多いのが何だか気になる」

 女性もそういうところを見るのか。

 ど、どう答えればいいのか分からない。

「ねえ、進堂君。良かったら、手……繋いでくれない?」

 少しの間、僕達の中で沈黙が続いた後に麻衣さんが言った。

「べ、別に進堂君のことが好きだとかそういう意味じゃなくてっ! でも、今の進堂君は女の子以上に可愛いし、一緒に手を繋いでも良いかもって思ったの」

 麻衣さんは彼氏がいるようだし、執事服姿の僕だったらきっと手を繋ぎたいなんて言わないんだろうな。僕の今の姿は麻衣さんの中にある罪悪感のようなものを無くす効果があるのかもしれない。

「麻衣さんさえ良ければ、僕は構いませんよ」

「……ありがとう、進堂君」

 麻衣さんは嬉しそうに笑って、右手で僕の左手を掴んできた。

 やはり、女性の手は僕よりも小さい。そして、柔らかい。条件反射なのか、それとも段々と緊張してきている所為か、手が汗ばんでいる。

「私の行きたい喫茶店、この近くだから。ついてきて」

「分かりました」

 まあ、手を繋いでいる状態だから大丈夫だとは思うけど。

 僕は麻衣さんに手を引かれる形で、駅近くの道を歩く。

 家族を失ってから、あまり駅の周りを歩くことはなかった。たった1年の間だけど、随分と変わった印象がある。麻衣さんの行きたい喫茶店が駅の近くにできたことも今まで知らなかったし。

 やがて、麻衣さんお目当ての『ダン・ディモア』という喫茶店に辿り着いた。

「ここだよ」

 手を引かれて歩くこと数分。

 駅の周り特有の賑わっている雰囲気から脱出し、閑静な住宅街に入ろうかという場所にダン・ディモアはあった。

「ダン・ディモア……いったいどのような意味なのでしょう?」

「フランス語なんだって。意訳だと『好きな時間』らしいよ」

「好きな時間、ですか」

「自分の思い通りに過ごせるような空間を提供しているんだって。紅茶を楽しんだり、美味しい物を食べたり。あとは何人かでお茶してもいいし、1人でゆっくりと本を読むこともできるんだって」

「なるほど」

 店内を覗いてみると、落ち着いている雰囲気が感じられる。お客もまばらのようだし、これならゆっくりとした時間が過ごせそうだ。

「それでは中に入りましょうか」

「そうだね」

 そして、僕と麻衣さんはアムーレタンに入った。

 優しそうなウェイトレスさんの案内で、僕と麻衣さんは窓側のテーブルに案内された。席はソファーになっていて、テーブルを挟んで4人座れるようになっている。

 僕は荷物を窓側に置いて、通路側に座る。麻衣さんももう1つのソファーに同じようにして座り、向かい合わせの形となった。

「麻衣さんの言う通り、結構落ち着いているお店ですね」

「そうだね」

「こんなに素敵なお店が近くあるなら、僕ももっと早く見つけるべきでした」

「藍沢さんにストレスを感じたら、気分転換にここに来るのかな?」

「……どうなんでしょうね。確かにお嬢様は我が儘で自己中心的な所はありますけど、ストレスに感じるようなことはおそらくないと思いますよ。いつか、麻衣さんのように僕がお嬢様にご紹介したいくらいです」

 そんな僕の言葉に、麻衣さんは無表情。そして、僅かに口角を上げ、

「ふうん、やっぱり執事さんの言うことは違うね」

「すみません、生意気なことを言っちゃって」

「別にいいの。きっと、そう思えないと執事ってやっていけないものだと思うから。特に藍沢さんの執事なら」

「お嬢様って、そこまで他人を毛嫌いしているとは思えませんが」

「きっと、それは進堂君が執事だからだよ。……って、別に藍沢さんを悪く言ってるわけじゃないんだよ? ただ、藍沢さんは……進堂君のことを特別に思っているんじゃないかなと思うの。印象が変わったのって、執事になってからじゃない?」

「そう、ですね……」

 言われてみれば、確かにそうだ。

 執事になる以前は、お嬢様が他の生徒と話している場面すら見たことがなかった。執事になり、僕とまともに話しているだけで今までのイメージが崩れる。麻衣さんの言う通りなのかもしれない。

 しかし、さすがは同じ女性だ。別のクラスなのにお嬢様の気持ちの変化を容易く紐解いてしまった。

「ほら、せっかく来たんだから……何か食べようよ。私、もうお腹減っちゃって」

 笑いながら、麻衣さんはお腹に手を当てた。

「そうですね」

 既に置いてあったメニューを開く。

 どうやら、喫茶店と言いながらもイタリア料理を中心にラインナップが豊富である。ピザやパスタがここの売りらしい。

 もちろん、喫茶店ということで紅茶やコーヒーの種類も豊富で、ケーキなどの洋菓子の種類も多い。これだけあると、喫茶店と言うよりも一種のイタリアンレストランみたいだ。

 さて、僕は何にしようかな。久しぶりにパスタを食べたい気分だ。

「私、カルボナーラにしようかな」

「それでは、僕はナポリタンにしましょう。お飲み物はどうします?」

「ミルクティーにする」

 どうやら、麻衣さんはミルク系がお好きなようで。

「僕はそうですね。せっかくなので、カプチーノでもいただきましょうか」

「決まりだね。じゃあ、注文しようか」

 そして、麻衣さんが先ほどのウェイトレスさんを呼び、それぞれの希望するメニューを注文した。

 落ち着いたところで、麻衣さんは店内の様子を見始める。

「私の期待通りのお店だったよ。まだ、料理を食べてないけど」

「僕もいいお店だと思いますよ。麻衣さんはなかなか店を選ぶセンスがあると思います」

「そう言われると、何だか照れるよ……」

 麻衣さんは僕から視線を逸らせ、水をコップ半分くらい一気に飲む。暑かったのかな、額も汗ばんでいるようだし。

 僕も水を飲んで口の中を清める。

 さて、舞台は整った。僕から徐々に話を聞き出していこうか、それとも麻衣さんから話してきてくれるのを待つか。

 そんなことを悩みながら麻衣さんとたわいのない話をして十五分後。僕と麻衣さんの注文した料理が運ばれてきた。

「美味しそうだね」

「ええ。さっそくいただきましょう」

 捜査や聞き込み云々より、まずは美味しい物を楽しまないと損だ。

 さあ、僕の注文したナポリタンは果たして美味しいだろうか。僕が料理してきた中でも、ナポリタンは作ることの多かったメニューだ。少しではあるけど、味にはうるさいと自負している。

「うん、美味しい」

 やっぱり、ちゃんとお客さんに出すだけあって美味しい。トマトの酸味の絶妙さが何とも言えないくらいに素晴らしい。

「何だか初めて進堂君が笑った顔を見た」

 ふっ、と麻衣さんは笑った。

 僕、ずっと今までむっとした顔をしていたのか?

「いや、別に本当に笑ってなかったわけじゃなくて……初めて執事さんから同級生に見えたっていうか。まあ、今はどう見ても可愛い女の子なんだけどね」

 どうやら、麻衣さんには何か感じるものがあるみたいだな。今までの僕の表情と、今の僕の表情の違いについて。

「麻衣さんの頼んだカルボナーラは美味しいですか?」

「うん、美味しいよ」

 そう言う麻衣さんの笑顔は、真宵さんの個展に来たときと同じものだった。やはり、美味しい物を食べるとどんな人でも幸せになれるのかな。

 僕はナポリタンを食べ、真宵さんの個展の話をしながら麻衣さんに本題を切り出すタイミングを見計らっていたが、結局僕は何もできなかった。楽しそうに話す麻衣さんのことを見ていると、自然と罪悪感を抱いてしまうからだ。

 そして、お互いに食べ終わろうかとしていたときだった。フォークを持つ麻衣さんの手が急に止まったのだ。

「どうかしましたか?」

 気づけば、麻衣さんの顔色が悪くなっていた。とりあえず、

「どこか具合が悪くなりました?」

 と、訊いてみるものの、麻衣さんは首を横に振る。

 その反応は僕には想定内のことだった。これは身体的なことではなくて、何か精神的なことじゃないかと。僕はフォークを置いて、カプチーノを一口飲む。


「……ごめんね」


 暫くして、麻衣さんは小さな声でそう言った。

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