第7話『事件概要』

 1時間目の数学が終わり、2時間目は体育。

 僕は執事服姿のままグラウンド脇のベンチに座っている。地震の所為で負った怪我が完全に治っていないので、当然僕は見学という形になった。自分から言おうとしたけれど、担任が事前に言ってくれていたのか、体育の担当教師が休み時間に僕の所に来て体育は見学するようにと言われた。

 体育は隣の2年4組と合同で行っている。そして、今日の内容は何故か男女混合での体力テストらしい。これなら見学で正解だ。体の節々が痛い状況でテストをやっても、全ての科目が最低点になるだろう。

 ちなみに、お嬢様はというと、

「藍沢。50メートル、7秒50。10点」

 見事に10点満点を叩きだしていた。知識も豊富であれば運動神経もいいと噂で聞いていたけど、本当だったんだな。

 僕は持ち合わせていたスポーツタオルを持ち、自分の方に歩いてくる半袖ハーフパンツの体育着姿のお嬢様の元へ向かう。

「お嬢様、お疲れ様です」

「うん、ありがと。良いわね、執事にこうしてもらうのも」

 お嬢様は凛とした表情で僕からタオルを受け取り、汗を拭き取る。

 今思ったけど、これじゃまるで憧れの先輩に汗を拭いてあげる女子生徒みたいな感じじゃないか。僕はあくまでも執事としてやっただけだけど。

「素晴らしいですね。持久走もシャトルランも10点満点だったじゃないですか」

「……べ、別に褒められるほどじゃないわよ。走ることだけよ、得意なのは。握力なんて全然ないわ」

 と言いながらも、きっと内心は喜んでいるんだろう。多分。

 出席番号順でお嬢様は1番なので、必然的に各種目とも最初に終わってしまう。最初だから緊張とかしないのかな。

 僕とお嬢様はベンチに座った。

「怪我が早く治ると良いわね」

「そうですね。日常生活は送れるくらいに治っているのでいいですけど。でも、早く僕も参加したいです。お気遣いありがとうございます」

「……執事の体調を気遣うのも主としての義務なのよ」

 お嬢様は少し乱暴に僕へタオルを返した。お嬢様の汗を拭いたものを僕が直に触ってしまっていいものなのか。

「そういえば、事件のこと……話していなかったわね。ここなら落ち着けるし、少し話しておこうかしら」

「他の人に聞かれる心配もありませんしね」

 事件の情報なんて簡単に第三者へ漏らしてはならないし。僕も迂闊に他の人に話さないようにしないと。

 こほんっ、とお嬢様は可愛らしく咳払いをして、

「まずは被害者について。被害者の名前は片桐彩乃かたぎりあやのさんで、2年4組に在籍している女子生徒よ。片桐さんは9日の夜から翌10日の朝までの間にナイフで腹部を刺されたと推測されているわ」

 9日から10日、ということは水曜日から木曜日にかけてか。僕は意識を失っていた間に事件は起こったのか。

「でも、随分と長いですね。もう少し範囲を狭めることはできなかったんですか?」

「……片桐さんは亡くなったわけじゃないから。司法解剖はもちろんできないし、手術は成功したんだけどまだ意識は戻っていないの」

「なるほど。なら仕方ないですよね」

 隣のクラスの人が被害者というのも少し怖い気分だ。2年4組ってことは、あれ?

「ということは、片桐さんはもちろん欠席しているわけですから……ここにいる4組の生徒さんは、事件の被害者が片桐さんだということは知っているんですか?」

「もちろん。でも、彼らが知っているのはそれだけよ。あとは稲葉隼人が被疑者として警察に連行されたことくらいかも。うちのクラスの生徒が4組の人間に話したかもしれないわね」

 何日も警察が茜色の館へ赴いたわけだし、事件について生徒へ何も話さないということは事実上不可能だと教師陣は考えたのだろう。

「では、それ以上のことは何も?」

「……ええ、あとは茜色の館で事件が起こったことくらい。片桐さんがナイフで刺されたという情報を知っている生徒は、あたしと由宇くらいしかいないわ」

「なるほど」

「でも、まあ……マスコミでも取り上げられているし今後、メディアを通して多くの生徒が知ることになるわね。最低限にしか報道しないように警察の方から規制をかけているけど」

 メディアが全国へ情報を流せば、自然とマスコミが緋桜学院にも来るし、被害者の名前を公表すれば片桐さんの家やその周辺にもマスコミ関係の人間が押し寄せてくる。そうなると捜査も行いにくくなるという理由だろう。

「そういえば、片桐さんの腹部に刺さっていたナイフには確か稲葉君の指紋が付いていましたよね。他の方の指紋は付いていなかったんですか?」

「……残念ながら、その件についての新たな情報は入っていないわ」

「そうですか」

 ということは、稲葉君が犯人の筆頭候補という状況に変わりはないのか。

 だけど、何か引っかかるんだよな。お嬢様がくれた情報がこう……上手くかみ合っていないというか。何というか。

「何だか浮かない顔をしてるけど。やっぱり、知り合いが疑われているから?」

「……それもありますけど。でも、何だかすっきりしなくて。稲葉君が捉えられていることとお嬢様の教えてくださった情報が」

「どういうこと?」

 お嬢様は不機嫌そうにしている。きっと、自分の言っていることにケチを付けられたのだと思っているんだろうな。

「それでは、僭越ですが。稲葉君が警察に身柄を拘束された理由。それは、彼が片桐さんの腹部に刺さっているナイフに指紋が付いていたからですよね?」

「何度も同じことを言わせないで欲しいわ」

「すみません。しかし、稲葉君はこう言っています。木曜日の朝、腹部にナイフが刺さっている片桐さんを見つけて思わずナイフを抜こうとしてしまった、と」

「……そう、言っているみたいね」

「片桐さんを殺害するはずなら、ナイフを刺したらすぐに抜く方が確実です。実際は殺人未遂事件ですから、警察の方は稲葉君が木曜日の朝に片桐さんを殺害しようと試みたと考えたはずです。なのに、実際に調べてみると片桐さんが刺されたと考えられる時間が水曜日の夜からとなっています。稲葉君を犯人だと考えるのであれば、警察の見解に対して僕は違和感以外を抱くことができないのですが。いかがでしょう?」

 拙いけど、僕なりに考えてみたことだ。

 これでお嬢様も少しは稲葉君が犯人でない、と考えてくれるだろうか。稲葉君が不利な状況に対して一矢を報いることはできたんじゃないか、と思うんだけど。

「……それは全て、稲葉隼人の言葉が真実だった場合のことよ」

「どういうことです?」

「第一発見者は確かに稲葉隼人になっているわ。彼が片桐さんを見つけて、悲鳴を上げたそうよ。彼が所属するサッカー部の同級生が駆けつけ、その同級生が持っていた携帯電話で救急車と警察に通報したの。彼が罪を逃れるためにそう言っているだけかもしれないってこと」

「そう、ですか……」

 また、扉が閉ざされた感じがした。

 やはり、僕の考えは甘いってことなのかな。推理に関して僕は素人だし。

「そう簡単に状況がひっくり返せるわけ、ないですよね。ごめんなさい、何だか生意気なことを言ってしまって……」

「……ううん、素人にしては結構筋が通っている推理だったわよ。さすがはあたしが執事としただけはあるわね」

 うっすらと微笑む程度だけれど、確かに笑った。

 何だか信じられないな。今までずっと不機嫌そうな表情で一日を過ごしているお嬢様が、同性ならともかく異性の僕に対して笑うなんて。対等とは言えないけど、こういう風に話せることが嬉しいのかな。

「まあ、あたしも稲葉隼人が犯人という線だけを考えているわけじゃないから」

「えっ、そ、そうなんですかっ!」

「声が大きい」

「すみません……」

「……噂をすれば来たわね、2つ左のベンチに。ちょっとあっちを見て」

 お嬢様が指さす方に視線を向けると、その先にはお嬢様と同じ体操服姿の女子が1人ベンチに座っていた。どこか元気がなさそうに見えるけど。

「あの女子がどうかしたのですか?」

「……怪しいわね」

「は?」

 思わず甲高い声を上げてしまった。急に何を言い出すんだ、僕の主は。

「怪しいって、まさか事件のことで?」

「当たり前じゃない」

「またまた、何を根拠にして言っているんですか」

 僕は少し笑いながら言うけれど、それでもお嬢様は真剣だった。

 思えば、左に2つ隣のベンチに座っている女子が表れてから、お嬢様の目つきが変わった気がする。

「これは小耳に挟んだことなんだけど、片桐さんはかなり男子からの人気が高かったと聞いているわ。そして、あの女子には彼氏がいたらしいんだけど、実はつい最近その彼氏がぱったり登校しなくなったの」

「……僕みたいに地震の所為で怪我をしてしまったのでは?」

「違うわ」

 あっさりと否定されてしまった。

「地震が起きる前からその彼氏はいなかったらしいわ。その直前に片桐さんと仲良く話しているところを見かけたっていう生徒もいたそうよ」

「つまり、恋愛のもつれということですか。一言で言えば、三角関係……」

「そういうことになるわね。非常にくだらない理由だけど」

「まあ……誰が誰を好きというのは自由ですし。そこまで言わなくても……」

 前に僕が読んだ小説の中に、恋愛のもつれで殺人事件が起こった内容もあったけど、実際にそういうことってあるのかな。でも、お嬢様が恋愛関係の理由で怪しいと思っているから、実際にも起こっているのかも。

「お嬢様が聞いたその話が本当なら、動機という意味では彼女が犯人である可能性も考えられる、というわけですか」

「その通り」

 すると、お嬢様は僕の背中を力強く叩いた。

「痛っ! いきなり何をするんですかっ!」

「……ほら、さっさと彼女の所に行きなさい」

「僕が行くんですか? ここは同性であるお嬢様の方がいいと思いますが……」

「あたしってほら、結構有名人じゃない。だから色々と警戒されると思うのよね。こういう時は由宇の方が上手く聞き出せると思うの」

「そんなものなのですかね……」

 自分で有名人、って言っちゃうなんて。ただ、お嬢様は特別捜査官という肩書きもあるので、そんな彼女よりも一般人の僕の方が色々な話は聞けそうだ。

「とにかく、彼女と話し合える関係になるだけでもいいから。ほら、主の命令よ。さっさと彼女のところへ行きなさい」

「……分かりました」

 こういう時に主という立場を乱用しないでいただきたい。

 でも、お嬢様の言うことも分かる。お嬢様が政界や法曹界に影響を及ぼす藍沢家の娘であることは結構な数の生徒は知っているはずだし、もしかしたら噂レベルでもお嬢様が特別な捜査権を持っていることを知っているかもしれない。となれば、警戒してあまり口に出さなくなる危険がある。

 その点、僕は病み上がりの変な格好をした生徒ぐらいの印象だろうから、まあ聞き込みに関してはお嬢様よりも自然とこなせるか。

 何にしてもこれがお嬢様からの初任務だ。頑張ってみよう。

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