第6話『藤原莉央』
5月12日、土曜日。
緋桜学院は私立高校なので土曜日も授業がある。ただし、午前中だけだけど。1年生の頃は国公立の高校に行く人が羨ましく思えたけれど、今ではそう思わなくなった。
今、僕は未来さんの運転するリムジンの後部座席に座っている。僕の右側には緋桜学院の制服を着たお嬢様が座る。5月に入ったのでブレザーは着ておらず、白いワイシャツの上に真紅のベストを着ている。
それに対して僕は半ば強制的に黒い執事服を着させられた。学校なら制服でもいいはずだと僕も反論したけれど、お嬢様曰く、常日頃から執事としての意識を持つために何時でも執事服を着るのが執事の礼儀らしい。それに僕は何一つ返事ができなかった。
お嬢様と未来さんが和気藹々と話している中、僕はお嬢様から昨日聞かされた例の事件のことについて考えていた。
考えれば考えるほどに謎の多い事件だと思う。
新しくオープンした茜色の館のトイレをわざわざ現場にするなんて、それも犯人にとって好都合な場所だったのかな。それとも、真宵さんの昨日の言葉を察するに、何か彼女に恨みなどを持って選んだのか。
そして、どうして稲葉君は茜色の館のトイレに行ったのか。何の気もなしに行ったのか、犯人による策略によってなのか。ううん、色々と分からないところだらけだ。放課後、お嬢様と一緒に捜査をするまで進展は望めない、か。
「そろそろ着くわよ、由宇」
「はい」
気づけば、私立緋桜学院高等学校の教室棟の昇降口前に来ていた。緋桜学院は有名な進学校であると同時に、名だたる財閥の子息や令嬢が多く通っているいわばお嬢様学校なのだ。麗奈お嬢様のようにリムジンなどで登校する生徒も少なくないので、昇降口の前まで道が整備されている。
「いってらっしゃいませ、お嬢様、由宇さん」
「行ってくるわ」
「行ってきます」
と言いつつも、注目を浴びるのが嫌なのでリムジンから出るのを躊躇っていたけれど、運の悪いことに僕の方のドアが学校側だった。故にお嬢様によって強引にリムジンの外に出されることに。
すると、予想通り周りの生徒の視線が僕とお嬢様に集まる。そして、同時に沸き立つざわめき。この状況から切り抜けたい。
「怯える必要はないわよ。これまでも、そしてこれからも緋桜学院の生徒なのだから。執事服だって学校に許可は得たし、由宇は私の執事であることを誇りに持って登校すればいいの。私の少し後ろで歩いていれば問題ないわ」
「……分かりました」
僕がただ一言そう言うと、お嬢様は僅かに口角を上げて頷いた。
人前ではあまり話したくないのかそれからはお嬢様との会話もなく、僕とお嬢様の在籍している2年3組の教室に向かう。
そして、教室まで辿り着いて中に入ると、それまでの話し声のボリュームが更に上がったように思えた。その理由はもちろん、僕がお嬢様と登校してきたからだ。
――怪我はどうだったんだ、とか。
――その服装は何なんだ、とか。
――お嬢様と一緒に登校してくるとはどういうことだ、とか。
まるで今まで何も面白い事に巡り会えなかったように、クラスメイトは僕に色々なことを糾弾してくる。
そんな中で、稲葉君が警察に拘束されてしまったことを話すクラスメイトもいた。多分、僕と稲葉君が普段から話しているのを知っていたからだろう。落ち着いて聞けよ、と前置きされたけれど、お嬢様から言われていたからか衝撃を受けることはなかった。それを不思議がって見ているのが少し面白いくらいに思えた。
おそらく、僕のいない3日間は重体の怪我を負った僕のことや、事件の被疑者として警察に拘束されてしまった稲葉君の話題で持ちきりだったのだろう。どのクラスメイトも最後は無事で良かった、と言ってくれる。お嬢様といい、僕は良い人に恵まれている。
「由宇、ちゃん……?」
ようやくクラスメイトが落ち着いたところで1人の生徒が僕に話しかけてくる。僕と同じ黒髪のおさげの女の子。
「莉央、久しぶりだね」
「……うん」
優しい笑顔をして頷く彼女の名前は
ちなみに、僕が女子だと間違われる一因として莉央が僕のことを「由宇ちゃん」と呼ぶことにある。今年度のクラス替えの時も莉央に今のように呼ばれていたので、一部のクラスメイトからは女子が男子用の制服を着ていると思われていた。
「由宇ちゃん、怪我は大丈夫なの? 先生が由宇ちゃんのこともうすぐ死ぬかもしれないって言ってたからずっと不安で……」
「藍沢さん……いや、お嬢様の家の人に助けられたんだ」
莉央はどうやら僕の言っていることが分からないようで首をかしげている。
「お嬢様……って、どういうこと? それに、由宇ちゃんのその格好も普段と違うし。私、よく分からないな」
案の定、莉央はゆったりとした口調で訊いてきた。
お嬢様の方を見ると、お嬢様は完全無視。僕から説明するしかないみたいだ。
そして、僕は莉央に全てを話した。地震が起きてから今、この瞬間までのことを莉央にも分かるよう事細かく。
「つまり、由宇ちゃんは藍沢さんの新しい執事さんなんだ」
「……そういうことだね」
「だから、由宇ちゃんは今、執事服姿になっているんだ」
「……そういうことだね」
僕が話している間、莉央は真剣な表情で静かに聞いていてくれた。今の2つの質問はおそらく、莉央の確認したい最低限の事柄なんだろう。色々と細かく話してしまったため、あまり表面には出さないが頭の中では結構混乱しているのだろう。
「そっかぁ。じゃあ、由宇ちゃんは命の恩人の所で働いているわけなんだね」
「それは大げさだけど……そうかな」
莉央は一度、お嬢様の方に視線を向けすぐに僕の方に戻る。そして、普段通りの柔らかい微笑みを再び見せる。
「分かった。じゃあ、今日から藍沢さんの執事さんだから……由宇ちゃんのことはどう呼べばいいのかな?」
「別に今まで通りでいいよ。莉央の呼びやすい言い方で」
「うん。じゃあ、由宇ちゃんのままがいいな」
「莉央がそう言うなら、僕に異論はないよ」
莉央からの呼ばれ方が女子に間違われる原因の1つではあるけれども、彼女からはやはり由宇ちゃん、と呼ばれるのが一番自然で心が落ち着く。
住む環境が変わり、今着ている服も変わり、更には藍沢麗奈の執事になった。そんな今の僕にとって、変わらないことが身近に1つでもあった方が嬉しいんだ。
「じゃあ、由宇ちゃん。執事に就職おめでとう」
「まだ高校2年になって1ヶ月ちょっとだよ? 確かに執事として働けるのは嬉しいけど、そう言われると何だか複雑な気分」
「うふふっ。でも、どんな形であれ……由宇ちゃんとまたこうして会えて良かった。本当に死んじゃうかと思ったんだよ?」
その瞬間、莉央は僕の胸元に頭を付けた。
僕はすぐに莉央の両肩に両手を乗せて顔を上げさせようとするけど、莉央の背中が小さく震えているのが分かった。
「……心配かけて、ごめんね」
そして、優しく莉央の頭を撫でた。
そういえば、こんなことをするのは久しぶりだと思う。莉央が泣くことはあまりなかったことだし。
僕が莉央に撫でられることもあった。最近だと、そう……1年前のあの日、だろうか。家族を失って、明日が見えなくなった僕に莉央は優しく手を差し伸べ、撫でてくれた。
そして、1年経った今。今度は逆の立場になって……きっと、莉央にとっては家族も同然の僕を失いそうになることを怖がったのだろう。
――だけど、もう大丈夫だ。
僕が今撫でていることで莉央にもそれが分かってくれたと思う。
周りが再び騒がしくなってきたな。ただでさえ、病み上がりの僕を注目する生徒が多いというのに、莉央がこんな感じだと、ね。
お嬢様にこの状況の沈静化に協力してもらおうとお嬢様の方に顔を向けると、
「……ふんっ!」
お嬢様は僕のことを睨むや否やそう言って、そっぽを向いてしまった。
あ、あれか。執事が他の人とばっかり話しているのが気に食わなかったのかな。莉央の頭を撫でてしまったことが、彼女の怒りを更に増幅させることになってしまったのか。
うん、執事って意外とデリケートな仕事かもしれない。
これからお嬢様と一緒に捜査をするんだから、お嬢様の癇に障るようなことは避けるようにしないといけないな。
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