第5話『親友の逮捕』

 ――茜色の館で事件が起こった。

 お嬢様が言ったその言葉のとある部分に、僕は耳を疑う。

「事件ですか?」

「ええ、殺人未遂事件なんだけどね」

「それは、その……大変なことが起こってしまいましたねぇ」

「何を他人事みたいに言ってるのよ」

「いえ、完全に他人事ですって。僕は無関係なんですから」

 それにしても、オープンしたばかりの茜色の館で殺人未遂事件が起こったなんて、さぞかし真宵さんもショックを受けたことだろう。真宵さんの表情を伺ってみても、やはり顔色は思わしくない。

「まったくさぁ、地震もあったっていうのに。その翌日には緋桜学院の生徒さんが刺されるなんてさぁ。これもわたしがデザインについて優柔不断だった罰なのかな」

「さすがにそれはないでしょう。少なくとも地震については」

「だって、由宇が死にかけたんだぞ! あたしが全ての元凶みたいで怖いんだよ」

「真宵さん……」

 確かに地震で僕が死にかけ、その翌日に自分のデザインした建物内で別の人が死にかけたとなれば、原因は自分にあると思ってもおかしくない、か。

「そこで、あたしがその事件について調べることになったのよ」

「お嬢様が? 事件の捜査は警察の仕事では……」

「あたしがどこの家の娘だと思って?」

 僕が口出ししたせいか、お嬢様は不機嫌そうに言う。

 しかし、僕はお嬢様が何を理由にそう言うのかがすぐに分かった。

「……まさか、藍沢家の権力を使って?」

 警察にまで影響を及ぼしているというのか、藍沢という財閥は。

「藍沢家は法曹界に多大な影響力を誇る。お父様は検察官だったから……現場で仕事をする警察関係にも名前は知られているわね。もちろん、その娘であるあたしの事も関東の警察なら知らない人はいないわよ。お父様が亡くなってから5年経った今でも、ね」

「凄いですね、お嬢様」

「それに、今までも何件かは事件を解決してきたから。まあ、あたしが藍沢家の娘だってことが肩書きだけじゃない、っていうのは警察の方も十分承知なのよ。それで、あたしもつい先日だけれど、特別捜査権を手に入れたわ。あいにく、事件に出くわした場合か、警察関係者か事件の関係者からの依頼がない限りは捜査に協力できないんだけどね」

 それを言うお嬢様の表情は心なしか輝いていた。

 一般人では持つことのできない事件の捜査権。特別な場合のみだけど、高校生にしてそんな権利を持てるなんて、やっぱりお嬢様は僕らとは違う存在なんだ。藍沢家という一族がどれだけ凄いのか、話しているだけなのに思い知らされた。そして、特別捜査権をお嬢様の実力で手に入れたのがまた凄いところだ。

「今回は事件現場となった建物をデザインした天草さんから依頼があって、この権利を行使するって決めたのよ」

「なるほど。でも、真宵さんからの依頼でもその権利の対象になるんですか?」

「茜色の館がまだオープンしたばかりっていうのが大きいわね」

「そうですか。……も、もしかして、お嬢様が言おうとしていることって……」

 恐る恐る僕が言うと、お嬢様は口角を上げた。


「やっと分かったのね。そう、由宇にはあたしと一緒に捜査してもらうわよ。茜色の館で起きた事件をね」

「……僕には無理ですよ」


 当然、僕はすぐに断る。

 特別な捜査権を持っているお嬢様だからこそ、事件の捜査をするんだ。お嬢様の執事という肩書きをついさっき得たけども、中身は普通の男子高校生だ。僕に事件の捜査だなんて無理に決まっている。

「僕がいたところで、足手まといになるだけですよ」

「私と一緒に捜査をするのが嫌なの?」

「……そういうわけではなくて。僕は普通の高校生なんです。殺人未遂の事件なんて、当事者や目撃者でない限り関わるべきではないと思うんです。もちろん、お嬢様みたいな特別な権利を持つ方なら別ですけれど」

「……もし、真宵さんからお願いをされたとしても?」

 静かにお嬢様からそう言われ、僕は真宵さんの方をちらっと見る。

 真宵さんは真剣な表情で僕を見つめ、口を開けばきっと僕にお嬢様と同じようなことを言ってくるだろう。けれど、僕の答えは変わらない。


「……じゃあ、稲葉隼人が被疑者として警察に拘束されていても?」

「えっ……」


 稲葉隼人いなばはやと君。クラスメイトで僕の親友だ。

 だけど、彼の名前がどうして突然出てくるんだ? それに、被疑者として捉えられているって、ま、まさか……彼が?

「嘘、ですよね? 稲葉君がそんなこと、するわけがない……」

 お嬢様は静かに首を横に振った。

「残念ながら警察は彼が犯人の最有力候補だと考えているわよ」

「何を根拠にしてそう言っているんですかっ! 僕をお嬢様に協力させるための嘘だって言ってください!」

 ベッドから降り、僕はお嬢様の前に立つ。

 その時、体中に激痛が走った所為でよろけてしまいそうになるけれど、未来さんが素早く僕の体を支えてくれた。

「そんなわけないじゃないですか……」

 嘘、と言って欲しかった。嘘だとしたらこの上なく酷い内容だけど、笑いながらでもいいからそう言って欲しいと本気で願った。

 だけど、すぐに僕はそう思うのを止めてしまった。神妙な顔つきでお嬢様が僕のことを見ていたから。そんな嘘をつくような酷い方ではないと思ったから。

「現場が男子用のトイレだったということもある。でも、一番の決め手になったのは被害者の腹部に刺さっていたナイフ。そのナイフの柄には被害者と稲葉隼人の指紋がはっきりと残っていたわ」

 お嬢様の言葉から出たのは僕にとって厳しい現実だけだった。

 はあっ、と僕はため息をつき、ベッドに腰を下ろす。

「……警察はそれだけで稲葉君を犯人だと思っているんですか?」

「現状では、ね。彼は被害者を発見したときに、ナイフを引き抜こうと思って触っただけだと言っているけれど。でも、その言葉が仇となったみたい」

「どうしてです?」

「ナイフが蓋代わりになっているから。それによって出血が抑えられる。逆に、ナイフを引き抜くと傷口が開き、そこから出血して失血死の可能性が高まる。それを考えると、殺意があったからナイフを抜こうとしたと警察の方で見解を示しているわ」

 稲葉君はナイフを触った上に、引き抜こうともしたのか。

 冷静に考えればナイフを抜かないようにすることも考えられるけど、実際にその現場を目撃したら果たして殺意があったからナイフを抜いたとは言い切れないと思う。訳も分からずに抜こうとした可能性だってあるじゃないか。

「その表情、納得できないって感じね」

「……当たり前です。稲葉君が誰かの命を奪おうとすることはしないと信じていますし、お嬢様だってそう思っているんでしょう?」

「……あたしはあくまでも、第三者の立場からこの事件について捜査するつもりよ。だから、稲葉隼人が一番の被疑者であると考えているわ」

 僕の言うことに、お嬢様も同意してくれると思っていた。

 でも、それって甘い考えだったのか? 虚しい思いとやりきれない思いが入り交じる。

「しかし、稲葉君は僕達のクラスメイトですよ?」

「それ以前に彼は1人の人間よ。クラスメイトなんて、先月から始まった期間限定の関係にすぎないわ。そんな色眼鏡で彼のことは見ていないわ。それに、稲葉隼人は被害者と面識がある。調べていけば何らかの動機だって見つかるかもしれない。言っておくけど、現時点で彼を解放することはできないわよ。友人の由宇には辛いとは思うけれど」

 お嬢様の言葉に、僕は何も言い返せなかった。

 随分と薄情にも思えた。しかし、お嬢様は1人の特別捜査官として事件の第三者の立場から正しいことを言っているのは事実だ。

 だけど、僕は納得できない。ある1点において。


「でも、信じることは間違っているんですか? 普段の稲葉君を知っている僕が、彼は犯人ではないと信じるというのは」


 稲葉君が無実だと信じる人が1人くらいいなくては、と思った。

 今のお嬢様の話を聞いているうちに、僕は稲葉君が犯人だと思い込んでしまった。僕は知っている。冤罪になってしまった人の中には、警察が用意した自白の文章を読まされたり、警察の描いたストーリーに乗っ取って誘導尋問をされたりすると。酷い話では、警察がねつ造した証拠品で有罪になったという例もある。

 その時、罪に問われた人の気持ちはどうなのだろう。きっと、孤独と戦っている。無実だと言いたくても言えない苦しみを味わっている。

 だからこそ、僕は稲葉君の無実を信じ抜きたいと決めた。そんな僕の気持ちが少しでもいいからお嬢様に伝わればいいんだけど。

 お嬢様は言葉を詰まらせていた。

「……無実だと信じているなら、由宇も一緒に捜査して。あたしとは違う目線で事件を見ることで、何か分かるかもしれないから」

「……分かりました」

 何もしないよりは。

 どんな真実が待っていようと、それに辿り着くためにはお嬢様と一緒に捜査をする他はないみたいだ。まあ、僕に推理なんて高級なことができる自信は全くないけれど……稲葉君がやっていないなら、きっとどこかに彼の無実を証明する何かがあるはずだ。

「どうやら、やる気になったみたいだな」

「……真宵さん?」

「ここに来たとき、藍沢さんに言われたんだよ。お前を何とかして事件の捜査させてもらえないかって」

「お嬢様が? なぜ?」

 稲葉君が拘束されていることにどんな反応を見せても、どっちみち僕のことを捜査に協力させるつもりだったのか。

 僕はお嬢様の方に顔を向けるが、それと同時にお嬢様がそっぽを向いてしまった。さっき、否定的な態度を取ってしまったからその所為かな。

 僕達の様子を見ていた真宵さんは小さく笑った。

「父親の親友の息子だからじゃないか? それに、事件の捜査をするなら誰かと一緒の方がいいだろうし。しかも、由宇はクラスメイトだ。常日頃から側にいる人間の方が良いだろ?」

「……なるほど」

「それに、お前は昔から探偵に憧れていただろ?」

「昔の話ですよ、それは」

 確かに、真宵さんの言うとおり僕は探偵に憧れていた時期があった。悪いことをした人に武器を使わず、自分の知識だけで戦う。

 もし、正義という言葉が一番似合うと職業が何かを訊かれたら、僕は迷わず探偵と答えるだろう。それは今でも変わらない。

「それに、単なる憧れです。僕はお嬢様のように事件を解決したことはおろか、推理することすらできませんから。僕にできることは、稲葉君が無実であると信じるだけです」

 というか、これから僕がやろうとしていることは、探偵ではなくて捜査官の助手なんだけれど。真実を追い求める、推理するという意味では探偵と同じだけど。

「……そうか、何だか由宇らしいな」

 僕らしい、か。

「僕もお嬢様の協力ができれば幸いだと思っています。どんな真実に出くわそうと僕は逃げるつもりは全くありません」

 稲葉君の件について嘘だと思いたかった自分が言えるようなことじゃないけど。

「じゃあ、藍沢さん。由宇のことをよろしくお願いします」

「あ、いえ……こちらこそ。我が儘を聞いてもらって、ありがとうございます」

 お嬢様と真宵さんは互いに頭を下げた。

 その後、お嬢様から話があり僕も明日から緋桜学院に登校するらしい。幸い、外傷はなく痛みも段々と引いてきたので、登校して学校生活を送る分には支障をきたすことはないだろう。実際問題、これ以上休むと授業についていけなくなる可能性がある。

 もう夜も遅いので、僕はすぐに眠ることにしたのであった。

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