3章 静かな目
それからの二週間はあっという間に過ぎ、刑法の試験はもちろんのこと、民法や行政法などほとんどの期末試験が終わった。今受けている試験が完了すれば、今期全てのテストをやり終えたことになる。今回も試験でさほど苦労はせず、いつも通り解くことができた。あれだけ勉強をしていたのだから、そうでなければ虚しすぎるのだけれど。あれほど不安がっていた聡も、今回はいつもより手応えがあったと言っていた。
「それでは筆記用具を置き、解答をやめてください」
試験監督の指示とともに、先ほどまでの静寂は嘘のように消える。あちらこちらから安堵のため息や、落胆し悲歎する声が聞こえた。
「静かに。解答用紙はそのまま机に伏せ、速やかに退場してください」
その言葉のあと、試験を終えた学生たちは言葉通り、速やかに講義室を出ていった。僕もその流れに従って講義室を退出する。
「宮園くん」
講義室を出たところで、可憐な声が背中越しに聞こえた。声の方向を振り返ると、頬を紅潮させてモジモジと身を捩らせている
「やあ、浅見さん」
最近になってから、彼女とは頻繁に会話をするようになった。というよりも、彼女からよく声をかけてくれるようになったと言ったほうが、この場合は適切だろう。僕自身、淡白な彼女にヤキモキしていたくらいだから、ここ最近の態度は嬉しい限りだ。
「宮園くんは、テストどうだった?」
嬉しそうに話を切り出す彼女の声は心なしか、いつもよりしおらしい気がした。
「まあ、いつも通りかな。そんなに難しいところはなかったと思うよ」
問題文をよく見ないと引っかかりそうな、意地の悪い問題などもいくつか見受けられたが、それくらいのイレギュラーは想定内だった。何しろ毎日の時間を勉学に費やしているのだから、そのくらいでなければ酷な話だ。周りの人間が遊んでいる間に復習をし、他の人間が休憩をしている間に予習をしている。そんな僕は高得点を取って然るべきだし、そうでなければこれほどもの哀しいことはない。
「宮園くんは本当にすごいなぁ。私なんか、単位が取れるのか心配なくらいだよ」
浅見さんは苦笑いを浮かべながらそう話した。
「まあでも、これで期末試験も終わって一安心かな。浅見さんは?」
そう言って彼女のほうを見やると、浅見さんはしばらくボーッと物思いに耽っている様子だった。その表情は、まるでお花畑にでもいるかのように華やいでいる。やがて彼女は僕がキョトンとしていることに気がつき、慌てて返事を紡いだ。
「あ、うん! 私も!」
一体どうしたのだろうと不思議に思ったけれど、きっとテストの疲れでボーッとしていただけだったのだろう。一生懸命な彼女のことだから、夜遅くまで勉強していたのかもしれない。そんな風に考えるのが僕にとって自然的で、最適解だった。
「ところで……さ…………」
二人で階段をのぼっていたとき、彼女は突然口ごもり始めた。よく見れば、先ほどにも増して顔が赤くなっている。ラブストーリー映画で、少女が告白するシーンそのものだった。
「来週末、予定空いてたりしないかな?」
来週末というと、丁度夏期休暇に入るところだ。
「うん、空いてると思うけど。どうしたの?」
僕の言葉にぱあっと表情を綻ばせたように見えたのは一瞬のことで、すぐに心許なさそうな面持ちへと変わる。
「あのさ…………来週の土曜日、私と一緒に映画を見てくれないかな…………」
心配そうに訊ねる彼女は一層しおらしく、僕の心中は桃源郷のごとく華やいでいた。これが、これこそが世に言うデートというものだろう。生まれて初めて、恋が実りそうになる感覚。こんな風に心躍ったのは、幼少期に初めてヒーローショーを見たとき以来のことだ。
「そうだね。テストも終わったし、週末くらいは大丈夫だよ」
幸いにも僕はアルバイトの類いを全くしていないし、勉強時間を減らせばなんとかなる。そのぶんの勉強時間は別の時間で補うなど、僕にとってはさほど難しいことでもなかった。なにぶん、今までコツコツと続けてきたぶんが溜まっているのだから、一日二日の怠惰は許されるべきである。それは、生まれて初めて絢爛に咲き乱れた恋という名の花々を、絶やさぬようにするための必要条件なのだ。
「ほんとっ!? やった!」
彼女は思いきりのあるガッツポーズを見せると、途端に顔を赤く染めて縮こまる。
「ねぇ、宮園くん。今欲しいものって、何かある……?」
出し抜けに、浅見さんはそんなことを訊いてきた。
「欲しいもの?」
僕が今一番欲しいもの。あれこれ思考を巡らせて、彼女の問いの回答を考える。今取り立てて欲しいものはない。強いて言うならば、試験中に時間を確認するための腕時計が欲しいと思った。試験中は教室に備え付けてある壁時計を見ればよいのだが、後ろ側の席に座ったとき、いかんせん時計が見えにくいのだ。
「腕時計……かな。それがどうかしたの?」
なんでもないと言葉を濁し、彼女はそのまま言葉を続ける。
「そそ、そういえば、メールアドレスを……教えてほしいんだけど……」
連絡のためと慌てて付け加えた彼女が、なんだか可愛らしかった。彼女とのメールアドレス交換を終えて別れるまで、僕は甘酸っぱい恋の果実を噛みしめていたのだった。
しかし彼女と映画館に行くという夢は、無情にも地の底へと消え去った。
彼女に振られたというわけではない。いくら二人が消えぬ消え去らぬ恋の旅路へと放たれたとて、一方がいなければどうにもならない。
彼女は、約束の日を前にしていなくなったのだ。いなくなったという表現は婉曲過ぎるかもしれない。事実と寸分違わぬ言い方をするのであれば、彼女は何者かに誘拐されたのだ。犯人から連絡が届いたわけでもないから、ただの行方不明と考えることは自然なことだろう。しかしこの地ゆえに、誘拐や拉致が蔓延するこの場所だからこそ、このような結論に辿りつくのだ。
正直な話、僕自身もこのことを信じたくはない。生まれて初めての恋が儚く散ったのだから。いや、散ったというよりも、奪われたと言ったほうが正しいだろう。とかく、彼女がいなくなってしまったというのは紛れもない事実だ。
もう一つ、彼女が誘拐されたという根拠があった。約束の日まであと二日に迫ったところだった。彼女からメールが届いたのだ。
そのメールは、自分が何もできぬ愚かな人間だと実感させられるような絶望が詰まっていた。
「助けて」
その三文字だけが、僕に与えられた猶予であり、同時に切迫でもだった。そしてその三文字を見てしまった僕には、辛苦と絶望が与えられた。すぐに警察に連絡した。焦っていて、何を話していたのか自分でも覚えていない。どこに連絡しても、彼女の今いる場所を知っているものなどいなかった。
程なくして、三人の警察官が頭を抱えていた僕のもとへと訪れた。小さい頃から憧れていた制服姿の警察官。しかし、目の前にいる警察官は、自己の不安を取り除くための憎たらしい敵でしかなかった。彼女は二度と戻ってはこないと、既に頭では理解していたからだ。
なぜなら、今まで拉致された被害者は誰一人として、戻ってきた事例は存在しないからである。骨一本指一本髪一本足りとて見つからないのだ。
本当のことを言えば、これらの事件が誘拐である証拠はない。誘拐なのか神隠しなのか、とんと見当もつかない。誘拐事件と言っているのは、単に警察がこの事件群の名称を求めていたからであって、誘拐がなされたという事実が認められたわけではない。拉致事件という扱いになっているのは、非力な自分達を認めたくないという警察の無意味な反抗精神なのだろう。
人が、誰も預かり知らぬところで消えていくのだ。そんな恐怖に打ち勝つ術と言ったら、現実逃避しかない。それは、人々にとっては仕方のないこと、警察においても当てはまってしまうことだ。警察官に憧れてはいたが、実際の警察官とは得てしてこんなものだという理解は、割と早くに身についている。だから浅見さんが帰ってくることなどは決して望めず、無事の発見を渇望する心は、ただただ水面の波紋のように広がっては消えていく虚しさを繰り返すだけだった。
自分の好きな人はもう戻ってこない。それだけで僕の心は打ち砕かれ、迷い彷徨うには充分すぎる絶望だった。玲瓏で優しげな彼女の顔を思い浮かべる度に、涙が溢れてくる。苦く塩辛いそれは留まることを知らずに、まるで滝を流れる流水にでもなったかのように流れ落ちていったのだった。
「本当ですか!?」
浅見さんが失踪してから、二週間が過ぎた頃だった。警察から、捜査に進展があったとの連絡がきたのだ。弾けそうな胸を押さえながら、僕を救ってくれる言葉を待ち望んでいた。しかし、僕が期待していた言葉は無情にも出てはこなかった。それは浅見さんが見つかったとか、犯人を捕まえたとかそういったものではなかった。
代わりに————
「浅見玲奈さんは何か必要なものがあり、購入資金を貯めていたそうです」
中年男性のしゃがれた声は、ゆっくりとそう告げた。
「必要なもの…………?」
その言葉が、妙に気になった。自分の望んでいた進展ではなかった、というよりも、進展なのかということすら疑問を抱くものだったが、僕はその話がやけに重要な手がかりのように聞こえたのだ。
「えぇ。浅見玲奈さんが裕福ではない暮らしをしていたというのはご存じでしょうか? いえ、もっとわかりやすく言えば、彼女のご両親は多額の借金を抱えていました」
「大学に通いながらアルバイトに励み、学費や生活費などは自分で出していたそうです。学費と生活費を賄うわけですから、何か怪しげなところで働いているのかと思いきや、いくつものスーパーやファミリーレストランのアルバイトを掛け持っていたらしいんですよ」
いやー感心しますよねぇと付け加え、刑事は電話越しに嘆息をついた。
「先にお話した浅見玲奈さんが購入しようとしていたものが何かはわかっていませんが、周りのご友人に短期バイトのあてがないか訊いていたそうなんですよ」
浅見さんのことは彼女自身からよく聞いていたが、こういった話は初耳だった。
「それでですね。浅見玲奈さんはアルバイト先を探している際、被害に遭われた可能性が大きいという結論に至ったんですよ」
電話越しの刑事は加えて————
「人身売買の事件はご存じですよね?」
その人身売買という言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りつく感覚を覚えた。
「浅見玲奈さんは、その人身売買に巻き込まれたのではないかという話があるんですよ」
聞くや否や、僕は慌てて問いただす。
「彼女は一体どこにいるんですか!?」
しかし、今の警察に本当のことを知る術はなかった。
「申し訳ありませんが、警察がわかったことはこれだけです。どうやっても我々は真実に辿りつくことができず、手を
僕は切なげに嘆息をつく。
「そうでしょうね…………」
テレビのニュースも新聞記事も、全てが同じことを言っていた。
「気持ちはお察ししますが、警察も努力しているんですよ。周遊しているわけでもなく、きちんと捜査した結果がこれなんです。わかっていただけませんかね?」
確かに仕方のないことではあるが、小さな頃憧れた警察が地の底に沈んでいくような気分だった。
「わかっていただけたのであれば幸いです。これからも、捜査のご協力をお願いします」
電話越しの刑事はそれだけを告げて、通話を打ち切った。受話器から流れるツーツーという音は静かな部屋に反響し、繰り返し何度も何度も鳴りを響かせる。
「浅見さん…………」
僕はその場で泣き崩れるしかなかった。
「それじゃ、またな喬也!」
一日の講義が終わり、聡は用事があるとかで早々と正門をあとにした。空を覆う夕空は、キャンバスに朱色と黒色の絵の具をデタラメに塗りたくったように黒ずんでいる。警察からの連絡を受けて、早一週間が経過した頃だった。
僕は、未だに浅見さんのことが忘れられずにいた。ともすると帰ってきてくれるかもしれないなどという自分勝手で非合理的な考えは、僕の脳を支配し離さなかった。始まりすらしなかった恋。僕の初めてで未完の恋愛。終わることすらなかった、無情の恋。それらは全て棘となって酸となって、僕の心を蝕んでいく。やりきれない想いは、一体どこにぶつければいいというのだろう。そんな疑問に苛まれる毎日だった。
心臓の重要な部分がまるごと取り払われたような空虚と、決して補完されることのない心の大穴に苦しんだ。そして、その苦しみをどうにも解消できない自分が憎らしかった。警察官になってこれらの事件を解決するなどと息巻いていた僕が、なんの行動もとることができないという己の無力さを恨んだ。彼女がいなくなってからも、今まで通りに生活を営んでいる僕自身が薄情に感じた。
こんな薄情な僕を、一体誰が褒めてくれるのだろう。
「そういえば…………」
彼女は失踪する前、僕の趣味を褒めてくれたことがあった。料理をする若者というのは得てして褒められるものなのだろうが、彼女に褒められたことは特段嬉しかった。
「アレを捌けるんだ? すっごーい!」
僕は嬉しくなって捌きかたを語った。長い話だったけれど、彼女は嫌な顔一つせずに聴いてくれた。血合いを取り除くことの重要性や骨を取り除く難しさ、お頭の美味しさなどたくさんのことを話した。彼女はお頭を食べたことがないと言っていたから、今度捌いたときには分けてあげると約束した。そんな会話は僕にとっての甘美なひとときとなり、素敵な思い出として僕の心に刻み込まれた。
そんな素晴らしい思い出を共有してきた浅見さんが、今はどこにもいないのだ。せめて、彼女に僕の得意な活け造りを馳走したかった。僕の
そんな想いを強く抱いていた僕は、知らず知らずのうちに商店街の魚屋の前に来ていた。
「よぉ兄ちゃん! 今日も飛びっきり新鮮なやつが入ってるよー!」
魚屋の店主は、いつも通り大きくて快活な声を響かせていた。ふと魚屋が手に持っているそれに目がいった。刹那、時間が止まったような気がした。時間が止まったというよりは、凍りついたと言ったほうが正確なのかもしれない。息をするのさえ忘れそうになるほど、それは僕にとって衝撃的なものだった。
————どうりで彼女が戻ってこないはずだ。
「それ……ください……!」
僕は、無意識のうちにそう叫んでいた。浅見さんにお頭をご馳走するのが叶わないことはわかっているのにも関わらず。僕は自分自身の言動が理解できなかった。いや、今この場で見た光景に混乱してしまったのだ。それほど僕は、彼女に強い恋心を抱いていたということだろう。
叶わぬ恋は遠く彼方へ消えてしまったことも忘れ、僕は店主からそれを受け取ると力の限り駆けだした。駆けて駆けて、駆け抜けた。商店街にいた他の客とぶつかりそうになったが、走ることしか知らない動物のように構わず走り続けた。ぶつかった相手から怒号が聞こえた。けれども、僕はそれに構わず足を動かすのをやめなかった。
アパートに到着した僕は、いつもより丁寧にベニヤ板を敷き、防水シートの上には先ほど魚屋から購入したそれを、できるだけ優しく置いた。そして、自室から持ってきた大きな出刃包丁を力の限り振り下ろす。食材が傷まないように、いや、痛みなど感じないように。
出刃包丁の軌道は、いつもと違って乱暴で乱雑でデタラメだった。まるで、やるせない怒りをぶつけるように。なんでこうなってしまったのだろうと、口に飛び散った返り血を拭う。
ふと見ると、目の前で僕が切りつけているそれの手には、小さな箱が握られていた。
「なんだ……これ…………」
出刃包丁をいったん置いて、血だらけの手でその箱を開ける。中には腕時計が入っていた。男もののガッシリとした造り。
『Takaya Miyazono』
というネーミング入りだった。そしてその下には————
『Happy birthday !』
という銀文字が添えられていた。それを見てようやく、浅見さんと一緒に映画を見る日が自分の誕生日だったということを思い出した。
しかしそれを見たとて、僕が調理の手を止めることはなかった。僕の目にどんな姿で写ったとしても、それはあくまでも食材でしかないのだ。食材になったものは、もう食材としてしか存在することはできない。もう二度とあの頃には戻れない。
目からあふれ出る涙は返り血と混ざり合い、互いを染め合い、体の表面から吸収されていくような感覚を覚える。結局僕は、誰かを救うことなどできなかったのかもしれない。僕は、ヒーローなどではなかったのだ。スーパーヒーローになど、最初からなれなかったのだ。こんな世界に生まれてしまったのだから。愛する人を想うように愛せない、こんな世の中に生まれ
この世界の人間ならば、ただ単に食材を捌いているようにしか見えないだろう。しかし僕は、僕だけはわかってしまうのだ。これがどれほど残酷で愚かで、凄惨なものなのかを。
なぜ僕は気がついてしまったのだろう。いや、なぜ僕はもっと早くに気がつかなかったのだろう。気がついたからといって、何ができたというわけではない。それでも、大切な存在を守ることはできたのかもしれない。
こんなことを考えていてももう遅い。僕は失ってしまったのだ。かけがえのない大切な存在を。自分自身が抱いていた希望を。今まで大好きだったこの街が、大切な人々の存在が、音を立てて崩れていく。僕にはどうすることもできない。たぶん僕は、明日からいつものように生活するだろう。何も知らなかったフリをして、この世界に溶け込むように。そうしなければ、迎合しなければ生きていけないのだ。
目の前の凄惨なそれを見つめる。
静かな目【短篇不条理ホラー】 咲谷まひろ @mahiro
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