2章 食材

 アパートに到着すると、暗くならないうちに調理に取りかかる。大家さんには、僕が外で食材を捌くことを認めてもらっている。というのも、僕のアパートの台所は狭く、大きなものは乗り切らないからだ。

 その代わり、一人で食べきれない部分は、アパートの住民にお裾分けをするということになっている。お裾分けとはいうものの、きちんと相応の食材費は払ってくれるところが、ここに住んでいる人達の気の良いところだ。


「こんなに大きな食材は捌けないから、むしろ嬉しいね」


 これはいつかの大家さんの言葉だ。

 出刃包丁を研ぎ、ホームセンターで買ったベニヤ板を地べたに置く。その上には消毒して清潔にしてあるシートを敷き、早速先ほど買ったものをデンと乗せた。


「今日はずいぶんといいものが入ったね」


 部屋から出てきた大家さんが、和やかな表情でそう言った。


「なんでも、いつもより活きのいいやつだそうで」


 そう言いながら、僕はおかしらに包丁を入れる。出刃包丁をノコギリのように動かし、硬いお頭をなんとか切り落とす。サラサラとした血が、白いシートの上を流れた。これは、食材が新鮮な証拠だ。本当に良いものが手に入ったと、内心嬉しい気持ちでいっぱいになる。

 頭を落としたところで、今度は臓腑を取り出す作業にかかる。腹を割くと、色つやの落ちていない新鮮なわたが顔を覗かせた。それを、出刃包丁でごっそりとそぎ落とす。そぎ落とすとは言っても簡単に取り出せるわけではなく、柔道で鍛えた腕を精一杯に使いながらの力作業となる。柔道で鍛えたとは言えど、まだまだヒョロヒョロな腕であることに変わりはないのだけれど。警察官に必要な筋力トレーニングの意味もこめて、この作業には思いっきり力を込めた。

 血合いを取り除くことも怠ってはならない。これを除かなければ、生臭さが残ってしまう。やっとのことで無駄な部分を取り除き、骨を削ぎ取る作業に移る。


「おぉ、今日もやってるねぇ」


 隣のアパートに住んでいる老婦の深山ミヤマさんに、後ろから声をかけられた。


「どうも、今日はいつもより良いのが手に入りまして」

「そっか、楽しみにしてるよ。でも———」


 深山さんは目尻に小ジワを作りながら付け足す。


「最近じゃあ、こっちのほうにも人さらいが出てきてるからね、気をつけるんだよ」


 この周辺で行方不明事件が起きたことは、記憶に新しい。


「土屋さんのところの娘さん……でしたよね……。茶髪でショートカットの」


 なんでも、このアパートに住む土屋ツチヤ夫妻の一人娘が拉致されたのだという。その女性は、近所の美容室に勤めていた。僕もその美容室には何度かお世話になったし、お裾分けを手渡ししたこともあったから、この女性のことはよく覚えている。一人暮らしをするかどうか迷っていたものの、両親を近くで支えるために同居することを選んだらしい。

 そんな優しい心の持ち主が、何者かによって拉致されてしまったのだ。


「店が終わって帰るときにいなくなったそうで、かわいそうに」


 眉尻を下げて深山さんはそう口にした。


「宮園くんはいい子だから、誘拐されないか不安でしかたなくて……」


 僕は体を鍛えた若者だから、恐らく大丈夫だろうけれど。


「気をつけます。深山さんこそ、夜に出歩いたりしないでくださいね」

「ありがとう。それじゃあ、宮園くんが早く立派な警察官になって、解決してくれるのを期待してるからねぇ」


 そう言って、深山さんはゆっくりと部屋へ入っていった。深山さんの言う通り早く終わらせなければ、事件に巻き込まれてしまうかもしれない。そう思って調理の手を早めた。




 刺身を作り終え、それをいくつかの入れ物にいれた。これをアパートの住人達に配るのである。


「大家さん、お造りができました」


 呼び鈴を鳴らし声をかけると、大家さんが優しげな表情で扉を開けた。


「今日のはいつもより新鮮なものなので、味と鮮度は保証します」


 刺身の入った大きめのタッパーを手渡す。


「ありがとう。はい、これ」


 タッパーを渡した手に、茶封筒を渡された。


「いえいえ、こんなに受け取れませんよ」


 これまでも材料費以上のお金を貰っていたし、こればかりは受け取れない。これを受け取ることは、僕の正義感が許さなかった。


「いいのよ。家族全員これを楽しみにしてるんだから、もらってちょうだい」

「でも…………!」


 そう言おうとすると、大家さんは僕の頭を撫でて————


「うちは子どもがみんな一人暮らしをしてしまって、楽しみがこれしかないの。だからね」


 半ば強引に、その茶封筒を握らされた。その微笑みに、僕はそれを受け入れることしかできなかった。


「いつもありがとうございます。それでは失礼しました」


 申し訳ない想いでそれをポケットに入れ、扉を閉めた。


「もう夜か…………」


 周りを見渡すと、綺麗な満月が出ているのがわかった。


「早く配り終えないと」


 深山さんを心配させてはいけないだろう。それに、僕はまだ夕食を食べてはいない。夕食のあとは、勉強をしなければならない。

 僕にはやることが一杯あった。


「えーと、次は…………」


 僕は大家さんの隣の部屋に設置されているインターホンを押した。


「あぁ。宮園くんね…………」


 覇気のない細々とした声で出迎えてくれたのは、土屋さんの奥さんだった。以前のように元気な表情は見せず、けた頬を精一杯に引きながら微笑もうとしているのが印象的だった。

 大家さんの話によれば、土屋さんは毎晩ほとんど寝ずに、娘の帰りを待ち続けているらしい。犯人からの連絡もなく、警察は誘拐ではなく拉致・人身売買事件の一件として認定した今でも、連絡を待ち電話の前で控えているのだという話は風の噂で聞いた。

 そんな状態だったから、これを持って訪ねることは躊躇われたのだけれど。一軒だけ行かないというのも差別的でおかしな話なので、一応は行ってみることにしたのだった。


「いつものやつだね……翔子もこれが好きだったから、食べたくて戻ってくるかもしれないね……」


 翔子というのは、拉致された土屋さんの一人娘の名前だった。


「ちょっと待っててね。今財布を持ってくるから…………」


 しかし、これ以上土屋さんの辛そうな表情が見ていられるわけもなく。


「いえ、材料費は結構です。大家さんから多くもらっているので」


 部屋の奥へと向かった土屋さんにそう言って、僕はタッパーを置き扉を閉めた。


「やっぱり、大変そうだな」


 一人娘がいなくなってしまったのだから、こうなってしまうのは仕方のないことだ。こんな事態を作った犯人がいるのだと考えると、憤怒する気持ちが全身を駆け巡った。やはり僕は、警察官にならなければならない。警察官になって、この事件を解決するのだ。

 そんな決意を胸に携えながら、僕はアパートの住人全員に刺身を配るのだった。




 自分の部屋に戻ると、早速夕飯の準備に取りかかる。準備とは言っても調理自体はできているから、活け造りの盛りつけだけで終わる。


「それと、ご飯も忘れちゃいけないな」


 朝炊いた分の白米をレンジで温める。本来は炊きたての白米をいただきたいところだが、腹も減っているので我慢することにした。

 大きな刺身皿にお造りを盛りつける。中央にお頭を乗せるのがこだわりだった。気がつくと、白米の加熱はすでに終わっていた。

 両手にミトンをはめ、温めていた深皿を取り出す。深皿の白米は炊きたてとまではいかないものの、美味しそうな香りがしていた。


「さて、食べようかな」


 全てをテーブルに置いて、水を注いだ透明なコップをオシャレなコースターに乗せた。


「よしできた! いただきます」


 箸で刺身を一枚すくうようにしてつまみ、わさびの効いた醤油にサッとつける。それを温かなご飯の上に乗せ、口の中にかきこむ。これが、僕のこだわりの食べ方だった。醤油には人一倍こだわり、地元のものを取り寄せている。


「んーーーー! うまい!」


 勉強で疲れた頭に広がる脂の甘さ。舌を包み込むような味わいに、思わず声が漏れる。これと同じものを大家さんたちに食べてもらえていると思うと、あれだけ頑張って捌いたかいもあるというものだ。脂身の部分はコリコリとした食感で、まさに歯ごたえ抜群だった。


「さて、お頭をいただこうかな」


 僕が一番楽しみにしていたお頭。大きな皿の中でも一際目立つ、今日の主役とも言える逸品。目玉はなおも艶を放ち、今にもキョロキョロと動き出しそうだ。

 僕は踊りそうな心を必死に抑え、醤油瓶をお頭の上で傾けた。



 ————痛い痛いって! ぎゃあぁぁぁああああああ!!!


 テーブルの大皿に乗っていたおかしらが、突然叫びはじめた。なるほど、魚屋さんが言っていた通り、確かに活きが良いようだ。


「どうしたんですか?」


 首だけになって叫んでいる茶髪ショートの女性に尋ねてみる。


「どうしたもこうしたもないわよ! 醤油が目に入っちゃったじゃないの!」


 おや、これはとても悪いことをしてしまった。食材には敬意を払わなければいけない。これは、小料理屋をしている両親から学んだ言葉だ。


「あ、すみません! 今、洗い流します!」


 僕は慌てて、コップに入った水を彼女の目にかけた。キッチンに走り、水を汲んではかけるの繰り返し。しばらくして、先ほどまで叫んでいた女性の頭は、ようやく落ち着きを取り戻した。


「ご近所さんには、あとで謝っておかないと…………」


 これからも付き合いを続けていかなければならない隣人と、不仲になってしまってはいけない。


「ありがとう…………」


 大丈夫ですかという僕の問いかけに、目の前の女性のお頭は、涙なのか水なのかわからないものを目から流してそう紡いだ。

 その言葉を最後に、彼女は全く喋らなくなった。活け作りは、ただの刺身に成り果てたのだ。

 それでも、新鮮であることに変わりはない。竹でできた風流な箸で刺身をスッと掴み、僕は再びそれを食べ始めた。噛むほどに広がる豊潤な香りと、まったりとしたコクのある味わい。勉強以外で僕が楽しみにしているのは、このひとときだった。


「あ、そうだ……!」


 刺身だけでは物足りないと考え、湯でサッと湯がくことを思いついた。台所に戻り手持ち鍋に湯を沸かし、持ってきた数枚の刺身をしゃぶしゃぶの要領で湯がく。今度は醤油ではなく、ポン酢をつけて口へと運んだ。


「湯がいてもうまいな」


 予想通り、ほどよく身が引き締まっていて新たな味わいが広がる。湯で表面の脂は多少落ちてしまうが、中の部分はやはり独特の甘さが感じられた。


「あ…………!」


 誤って刺身を一切れ落としてしまい、床に落ちたそれをティッシュペーパーで掴む。それを拾うため下を向いたとき、前髪が鬱陶しくなっていることに気がついた。


「あぁ。そろそろ髪を切りたいなぁ」


 僕がそう言った瞬間。


「わたしが切ってあげようか!?」


 突然、リビングのほうから声が聞こえた。驚いてそちらのほうを見やるが、誰かが部屋を訪れた様子もない。そもそも、きちんと内鍵は締めてあるはずだから、誰かが入ってくるなんてことも考えられなかった。

 いろいろ思考を巡らせていると、ああそうかと僕の疑問は完全に拭われた。

 恐らくリビングに置いてある女性のお頭が、そう喋ったのだろう。先ほどは喋らなくなったから、てっきりもう尽き果てたのかと思っていたが、やはり新鮮で活きの良いものは違うなと感心した。




 食器などを片付け終え、ワーキングデスクに教科書とノートを広げる。今日の刑法の講義はいつもより頭に入らなかったから、念入りに行わなくてはいけない。刑法の試験も近いからなおさらのことだ。

 僕はいち早く警察官となり、現在世間を騒がせている拉致・人身売買の事件を解決しなければならない。面識のある美容室の店員が拉致されたことで、僕の正義感は憤怒を携えていた。

 茶髪でショートヘアーの女性店員は、いつも楽しそうに髪を切っていた。確か、自分のカットでお客さんに喜んでもらえるのが嬉しいのだと話していた。それはそれは楽しそうにカットしていたことを、今でも覚えている。

 そんな女性は悪によって拉致されてしまった。今も、犯人の手によって何をされているのかわからない。彼女にはもう一度、人の髪をカットする喜びを感じさせてあげたい。あの人は、何も悪いことはしていないのだ。何の落ち度もない人が、そんな苦痛を強いられているのだから、憤慨するのは当たり前のことである。

 僕が警察官になるまでには、早くても数年かかる。なんとか、今の警察に犯人を捕まえてほしいものだ。


「この世に悪がなくならない限り、僕たちは走り続ける!」


 子どもの頃大好きだった、あるヒーローの名ゼリフだった。あのセリフが今僕の心の中でほむらとなり、熱く熱く燃えている。その熱はいつものように、ノートに書き写す手を早めていく。

 今、眠気などは全くない。というよりも、眠気など眼中にない。僕の夢は、そんなものに屈することなどないのだ。それは、ヒーローになるという夢を叶えるため。子どもの頃から憧れていた、悪を挫き正義を貫く、かっこいいヒーローになるため。そんな決意に背中を押されながら、僕は勉強を続けるのだった。




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