幻 その十五

「そこまでゆっくりしているというのが思慮深いなら、思慮の浅いほうがましなようだね」



 などと言って光源氏は昔からの悲しかった思い出などをあれこれと話し出す。その中に、



「亡くなられた藤壺の宮がおかくれになられた春のことだった。その春は花の色を見ても本当に古歌のように〈野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け〉と感じたものです。それは世の中の誰の目にもこの上なく美しくていらっしゃった藤壺の宮の姿を私は幼いときから身近に拝見して、深く心にしみついていただけに、お亡くなりになるときの悲しさも他の人よりとりわけ深く感じたからなのです。そうした哀しみの情というものは自分がその人に寄せている特別な愛情によって左右されるものでもないのです。長い年月連れ添った人に先立たれて、あきらめようもなく忘れられないのも、ただ夫婦の仲だったからという悲しさだけではない。紫の上を幼いころから育て上げてきたあれこれの様子や一緒に連れ添ってきた晩年になって、自分ひとりこの世に捨てられて先立って人のことや残された自分の身の上が何かと思い続けられて、その悲しみに耐えられないのです。すべて心にしみる情趣についても、趣味や教養に関しても面白かった風流についても、あれこれと思い出が広く豊かなほど悲しみを深めるようですね」



 などと夜が更けるまで昔や今の話をして、このままこちらに泊まってもいい夜だけどと思いながらもやはり帰るのを、明石の君もしみじみと悲しく思うことだろう。

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