澪標 その十五

 五月雨がしとしととつづいて所在無い頃、公私ともに暇なので、光源氏は思い立って、ようやく花散里のところに出かけた。


 光源氏が訪ねなくても、明け暮れの経済的な面は、何かと心をくばって世話をして、暮らしている人なので、当節の女たちのように様子ぶって、拗ねたり、恨んだりするはずもない。それで、光源氏も気兼ねがないようだった。


 この数年の間に、邸はいよいよ荒れ果てて、いかにももの淋しい暮らし向きの様子だ。


 まず姉君の麗景殿の女御に目にかかって話した後、花散里の住む西の妻戸には、夜がすっかり更けるのを待ってから、立ち寄った。


 折から月の光が朧に差し込んで、光源氏の艶に美しい立ち居の様子が、限りなく素晴らしく見えた。


 花散里は、光源氏にますます気後れするものの、それまで端近くにいて、ぼんやり物思いに沈んでいたそのままの姿で、慌てずおっとりと迎える様子は、なかなか悪くなかった。


 水鶏がとても近くで戸を叩くように鳴くのを聞き、




 水鶏だにおどろかさずにはいかにして

 荒れたる宿に月を入れまし




 と、じみじみした優しさを込めて、訪ねてくれなかった恨めしさを、控えめに言うのだった。



「ああ、どの人もそれぞれ捨て難いよさを持っていることよ。これだから、かえって私も苦労するのさ」



 と思った。




 おしなべてたたく水鶏におどろかば

 うはの空なる月もこそ入れ




「心配なことですね」



 と、一応口先の軽口を言うが、花散里は真面目一方で、浮気めいたことなどで、疑いを招くような性質ではなかった。長い年月、光源氏だけをひたすら待って過ごしたことも、決しておろそかに思っていなかった。須磨へ出発する前に、「空な眺めそ」と歌い、光源氏が励ましたことなども、花散里は話し出し、



「どうしてあのときは、こんな悲しみはまたとなあるまいと思いつめて、嘆き悲しんだのでしょう。不幸せな私にとっては、あなたが帰京したところで、めったに逢うことはできない悲しさは同じですのに」



 と、言うのも、おっとりとして可憐だ。光源氏は例によって、どこから出る言葉なのか、こまやかに、綿々ときりもなく慰めるのだった。

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