明石 その三十五
光源氏は、いつも聞きたがっていた明石の君の琴の音を、明石の君がとうとう今までどうしても聞かせなかったことを、とても恨んだ。
「それではお別れに、あなたの形見として思い出になるように、一節だけでも」
と言って、京から持参した琴を海辺の邸に取りにやらせ、まず自分がとりわけ風情のある曲を、ほのかにかき鳴らした。深夜に響く澄み切った音色の美しさは、たとえようもなかった。
入道はそれを聞いて感に堪えないで、筝の琴をとって御簾の内に差し入れた。明石の君も、ひとしお涙までもよおし、止めようもなかったので、自然と気持ちが誘われたのだろう。ひそやかにかき鳴らすのが、とても気品高い演奏ぶりだった。
光源氏は藤壺の宮の琴の音色を、当代にたぐいのないものと思っていたが、それは当世風にはなやかで、聞いている人が惚れ惚れして弾く姿まで、目の前に浮かんでくるような点では、本当にこの上もない素晴らしい琴の音色なのだった。
明石の君の弾く琴は、あくまで音色が深く冴えきって、心憎いほど美しさを出す点がすぐれていた。光源氏のような音楽に堪能な人でさえ、はじめて耳にする曲などを、しみじみと懐かしく弾いて、もっと聞きたいと心をそそられるあたりで、弾きやめてりするので、物足りなく思った。それにつけても、これまでの歳月、どうして無理にもせがんでこの琴をいつも聞かせてもらわなかったのだろうと悔やむのだった。
心のありったけを傾けて、将来の約束ばかりをした。光源氏は、
「この琴はまた逢う日に、ふたりで合奏するまでの形見にここへ残しておきましょう」
と言った。明石の君は、
なほざりに頼め置くめる一ことを
尽きぬ音にやかけてしのばむ
と、言うこともなく口ずさむのを、光源氏は恨んで、
逢ふまでのかたみに契る中の緒の
しらべはことに変らざらなむ
「この琴の絃の調子が狂わないうちに、必ず逢いましょう」
と、それを頼みに約束するようだった。
けれども明石の君は、ただ目の前の別れの辛さに胸を一杯にして泣き咽ぶのも、実にもっともなことなのだった。
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