明石 その九

「世間の人が入道の言葉を信じたと聞き伝えたら、自分に対して後世の非難も穏やかではないだろう。それを気にするあまり、入道の迎えが真実神のご加護であるかもしれないのに、それに背いたりしようものなら、またこれまでより以上に世間の物笑いになるような憂き目を見ることになるだろう。この世の人の意向でさえ、背けば面倒なものなのだ。ほんの些細なことにも身をつつしみ、年長者や、自分より地位が高く、世間の信望もさらに一段とすぐれているような人に対しては、逆らわず従順にして、その意向をよくよく推量して添うように努めるべきなのだ。控えめにしていれば、何事も問題ないと、昔の賢人も言い残しているではないか。たしかに自分はそうしなかったからこそ、命も危うい災厄に遭い、世にまたとない辛い目をありったけ経験してしまった。今更後世に伝わる悪評を避けようとしてみたところで、たいしたこともないだろう。夢の中にも亡き桐壺院の教えもあったことだし、この上入道の言葉の何の疑うことがあろう」



 と考え、返事をした。



「見知らぬ不案内な土地へ来て、世に稀な辛苦しい経験をし尽くしたけれど、都のほうからといって、見舞いを寄越す人もいない。ただ行方も知らぬはるかな空の月と日の光だけを、故郷の友と眺めていましたが、そんなところへ、嬉しいお迎えの船をいただいたものです。明石の浦には、ひっそりと身を隠せるようなところがありましょうか」



 と言った。


 入道はこの上もなく喜んで、御礼を言った。



「何はともあれ、夜の明けきらぬ前に、船のお乗りくださいますように」



 ということで、いつもの側を離れず仕えているもの四、五人だけをお供にして、船に乗った。


 例の不思議な風がまた吹いてきて、船は飛ぶように明石に着いた。須磨から明石へは、ほんの一跨ぎの近さなので、さして時間もかからないとはいえ、それにしても、怪しいほどの不思議な風の働きだった。

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