葵 その三十五

 帳台の前に、硯などが散らかったまま置かれている。光源氏の手習いの捨て反古を左大臣は拾い上げて、涙を絞りながら見るのを、若い女房立ちは、悲しみながらも微笑んでいるのだった。そこには心を打つ古い古人の詩歌などを、唐のものや大和のものなどを書き散らしては、草仮名も漢字も、いろいろ珍しい書体で書き混ぜてあるのだった。



「何という見事な筆跡だ」



 と左大臣は空を仰いで嘆息しながら見た。これほどの人とは、これから他人付き合いしなければならないのが、惜しまれてならない。


「旧き枕、故き衾、誰と共にか」とある漢詩の側に、




 亡き魂ぞいとど悲しき寝し床の

 あくがれがたき心ならひに




 また、「霜の花白し」とあるところに、




 君なくて塵つもりぬるとこ夏の

 露うち払ひいく夜寝ぬらむ




 とある。先日、歌につけて大宮に贈った時の撫子の花なのだろう。枯れて反古の中に混じっていた。左大臣はこの筆跡を大宮に見せて、



「今更入っても甲斐ないことは言うまでもないけれど、こんな悲しい逆縁の例も、世間にないわけではないと、無理に思ったり、また、あの娘はこの世の縁は短くて、こんなに親の心を悲しませるように生まれついたのだろうと思うと、なまじこの世で親子の縁を結ぶようになった前世の縁がかえって辛い。前の世から約束ごとなのだから、と悲しみをなだめていても、日数が積もるにつれて、ただ亡き娘が恋しくてたまらないのに、この光源氏が今はもうこれ限り他人になってしまうのが、どう考えてもたまらなく悲しい。一日二日も光源氏が見えず、通いが途絶えがちだったときでさえ、いつもたまらなく切なくて、胸が痛んだものだったが、朝夕光がさしこむように思われた光源氏という素晴らしい光を失っては、これから先、どうして生きながらえることができるだろうか」



 と泣き声も抑えきれないで、号泣する。それを見て御前に控えている年かさの女房たちなどは、とても悲しくてたまらず、いっせいに泣き出すのも、そぞろに寒いこの夕暮れの情景なのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る