葵 その十五
左大臣家では、葵の上に物の怪がさかんに現れて、その度、葵の上はとても苦しんだ。
六条御息所は、それを自身の生霊とか、亡き父大臣の死霊などと噂しているものがいると聞いて、あれこれと考え続けている。いつでも自分ひとりの不幸を嘆くばかりで、それよりほかに他人の身の上を悪くなれなど、呪う心はさらさらなかった。だが、人はあまり悩み続けると自分でも知らない間に、魂が体から抜け出て迷い離れていくというから、もしかしたら自分にもそういうことがあって、葵の上にとり憑いていたのかもしれない、と思い当たる節もあるのだった。
「この長い年月、悲しい心労の限りを味わい尽くしてきたけれど、こんなに心も砕かれるほど思い悩んだことはなかった。それなのに、あの御禊の日のつまらない車争いの時、あの人から侮辱されて、蔑ろに扱われたと思って以来、そのことばかりを一途に考え続け、口惜しさのあまり理性を失い浮き漂うような心を、鎮めようもなかった。少しでもうつらうつら、うたた寝すると、夢の中にあの葵の上と思われる人が、とても美しい姿でいるところへ自分が出かけていって、その人の髪を掴んであちらこちらへ引きずりまわしたり、正気のときには思いもよらないほどの、烈しく猛々しいひたむきな激情が、猛然と湧きあがってきて止めようもなく、その人を荒々しく打ち叩いたりするのを、ありありと見ることが幾度となくあった。ああ、浅ましい。ほんとうに自分の魂がこの身を捨てて抜け出して行ったのだろうか」
と正気を失ったように感じることもあった。
「それほどのことはなくても、他人のことは、よいようには言わないのが世間なのに、ましてこれは、どんなふうにでも噂を立てられていい材料なのだから」
と考えると、いかにも悪い評判になりそうだった。
「一途に思いつめて死んでしまってから後に、人の魂が怨霊になるのは、世間によく例のあること。けれどもそれさえ、他人のこととして聞いた場合は、罪障の深い、気味の悪いことだと思われるのに、現に生きたままこの私が、そんな疎ましい噂を立てられるとは、何という宿縁の情けなさか。もう一切、あの薄情な光源氏様のことなど、どうであっても、心にかけないでおこう」
と六条御息所は思いなおすが、そう思うまいと思うことが、すでに物を思っていることなのだった。
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