6 千春の溜息

 女子テニス部か、女子バレー部かの喚声がして、学校に居ることを思い出させてくれる。千春はぼうっと時計を眺めており、何も語りかけてこない。

「どうした千春? 心境の変化か?」

「なにが?」

 あまつさえ、あからさまにとぼけてくるのだ。悟はわざと不機嫌そうに目を逸らすと、部室のノートパソコンからインターネットブラウザを起動した。

「ふん。じゃあ俺たちも現場に戻ってみるか。確かコンビニからすぐの――」

 地図を検索するサイトにアクセスし、昨夜――正確には今日の深夜、ふたりが襲われた場所と照らし合わせた。金松町出身の悟には見慣れた地図で、互いの家は徒歩で十分もかからずに行き来でき、学校までも徒歩で十分ほどの立地である。

 襲われたのは、自宅から最寄のコンビニを、ちょっと歩いたくらいの路地だった。

「はあ……」

「なんだ千春、アンニュイなのか? 夕飯ご馳走してやるから元気出せって」

 ふたりきりの部室。よく訪れるシチュエーションだが、今日の千春は冴えなかった。理由はどことなく理解していたが、言及はしなかった。

「しかし牛男に会うとは、まさかの展開だな」

 互いのことをよく知っていても沈黙は苦手だった。悟は無理にトレンドを持ちかけていた。

「新聞部である以上、事件は最高のおかずでしょ。性ってやつかね――」

 千春の語尾に被さったのは、グラウンドを走り回っている野球部かサッカー部の罵声だった。顧問か生徒か知らないが、サンクチュアリに入ってきた汚らしい声によって、気分を害された。

「はあ。もうすぐこの部活ともお別れか」

「なんすか、千春さん? 寂しいんっすか?」

「弘の口調やめい。いやね、やっと自由になれると思ってさ。運動嫌いの誰かさんに引きこまれた部活だし」

 思えば、千春が入学当初から帰宅部を希望していたと知ったのは、三年生になってからだった。両親が居ない千春は部活よりも家事を優先したかったと聞かされ、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたが、

「でも、ほかの部活に入るより、よほど有意義な時間を過ごせた。悟のお陰でな」

 千春が目を見ながら一笑してくれるだけで、救われたような気がした。

「俺は、なるべくお前と一緒に居たかったから。というか、そう決めたから」

 会話が滞ると物恥ずかしくなり、千春とともに液晶画面のマップへ目線を戻した。気を抜くと、千春が着る制服の匂いか、昨晩使ったシャンプーの匂いかで、頭がトリップしかけるのは相変わらずだった。

「えっと俺らが襲われた場所は人気がないところだな。それを知ってての犯行か」

「十中八九、その辺に詳しい人間の犯行だろうね。さて、私らも出るか」

 千春の声を合図とし、部室に南京錠をつけると、職員室へ鍵を返し、徒歩で現場へ向かった。


 麦倉宅、米田宅から最寄のコンビニは住宅街にあり、通勤や通学で使われ、スーパーや百貨店へ出るのが億劫な人のためのライフラインにもなっている。コンビニに面した小路は交通量が少ない。人気ひとけも同じで、夜になれば尚更である。

 そうかといって、人の目がなくてもあのまま逃走するには無理がある。被り物を取り、服を着なくては目立って仕方ない。逃走用の足は必須だ。

 ひとまず牛男の目的を度外視して考えても、立地を知った上で犯行にいたったのは明瞭としていた。

「ねえあれ。牛男に投げつけた傘だ」

 路傍ろぼうに横たわる、ビニールの一部が切り裂かれた傘に歩んでゆく千春は、まだ湿っているそれを左手で持った。もし、傘の先に血痕が付着していれば充分な証拠になっただろうが、傘の先では牛男の丈夫な体は貫けなかったようだ。

「もう粗大ゴミだな」

「ったく、ビニール傘一本でも地味に高いのに」

 あんな被り物をして、正確に襲いかかってきたのだから運動神経は良いはずだ。筋骨も隆々としており、いかにも体育会系を想像させるルックスだった。

「あいつは俺らを襲ったあと、どうやって帰ったんだろうな」

「徒歩とは思いにくいし、車を近くに停めてたんじゃない? あの恰好じゃねえ」

「確かに、この辺なら路駐してても文句言われなさそうだな。車で帰れば被り物も、裸体も隠せるし」

 おおよそを推測した悟たちは、周辺の住民に聞きこみを開始した。かといってふたりは刑事ではない。民家のチャイムを押すわけではなく、ちょうど外に出ていた主婦や、畑仕事をする老人や、通りかかった学生に声をかけて、

『昨日の深夜、この辺に怪しい車は停まっていませんでしたか』

 という問いを投げかけるのが精一杯だった。

 数十人に聞いて回ったが、一様に「そんな車は見ていない」という明確な答えが返ってきた。中学生の調査では、この程度が関の山か。

 本日はろくな結果が得られないまま、千春の溜息とともに十七時を回り、カラスが山に帰っていった。

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