7 千春の達観

 情報収集を早々に切り上げた悟は、千春に別れを告げると自宅へ足を向けた。

 いや、別れを告げたはずなのに――約束していたわけではないのに――なぜか、麦倉宅に一緒に上がる千春の姿があった。動機は数時間前の発言にあったようだ。

「さっき『晩飯ご馳走する』って言っただろ。アンニュイなんでゴチになります」

「自分で言っちゃったよこの人」

「食育調査も兼ねてんの。黙って言うこと聞けよ部長」

「お前は自治体か……」


『最近の若者は』――年寄りめいた小言ではないが、豊かな時代ゆえの虚弱性が人間の心から窺えると千春が説くことは珍しくない。あといくつ歳を取れば、悟も同じセリフを吐けるのだろうか。悟が描く、若人としてのテーマである。

 自室へ向かう前にリビングに顔を出した千春は、挨拶がてら麦倉母、麦倉妹と軽い世間話を交えていた。

「あら、千春ちゃんいらっしゃい。ご飯食べてく?」とか、「千春おねーちゃん久しぶりだね!」とか、他愛のない話を終えると、二階に位置する悟の自室に侵入し、制服姿のままベッドに寝転がってしまった。

 家族のような仕草に違和感がなくなっている昨今、悟が隣で着替えをしても一切の反応がない千春は、カバンからスマートフォンを取り出し耳に当てていた。

「あ、もしもーし私。あのね、今日は悟んとこでご馳走になるから夕飯要らないや。うん、ごめんね。はいよー、そんな遅くならないから大丈夫。んじゃね」

 ルーチンのように保護者との会話を終えると端末をしまい、代わりに取り出した文庫本を読み始めた。千春にとって麦倉家は、それだけ居心地が良い場所なのだろう。


 十八時半。

 リビングからお呼びがかかりダイニングへ向かうと、麦倉父と挨拶を交わした千春が先に食卓へついた。続いて悟が千春の横に座り、それぞれの『いただきます』が重なった。

 麦倉家の食卓は、第三者の介入によりテレビそっちのけで盛り上がっていた。千春はしっかりしているとか、千春は可愛いとか、千春は運動もできる子とか――褒められている本人は、苦笑いばかりしていたが。

「しかし千春って好き嫌いないの? なんでも食べるよな」

 千春の顔色を窺い、悟は強引に話題を変えた。右手の箸を止め、茶碗を置き、肉じゃがの『じゃが』を頬張ったあと、千春と目が合った。

「悟もな。私は幼少の頃から嫌いな物でも強引に食べさせられたから、食事を残すことが許されなかったんだよ。ひとつの掟みたいなもんで、破れば罰もあったよ」

 千春の過去に対し、麦倉家の誰かが何かしらの反応を取ったが悟は無視した。

 同世代と反りが合わない千春が、悟と常につるんでいるのは、飽食の時代には珍しく、好き嫌いを言わずに出された食事を平らげるという、単純な理由もあると以前語ってくれた。

「過激だな。いや、教育はそれぞれか」

「だから私、食べ残しとか好き嫌いとかに憧れを抱いてるのかも」

「んじゃあ同時に憎しみもあるのか? そうやって残す連中に」

 千春は何も答えず笑みを浮かべると、残り一口のご飯を奇麗な箸使いで片づけ、味噌汁に箸をつけた。千春の事情を知ってもなお、友人として付き合い続けていることがあまりにも不思議で、悟も思わず笑みを浮かべてしまった。

「悟は今のままで居ろよ」

「難しいな」

「確かに。人は変わっていっちゃうからね」

「違う。お前の言葉を読み取るのが」

「悟? あんまり人を信じすぎるなよ」

 愉快な会話が途切れ、悟も箸を置き、軽く両手を合わせた。


 腹八分目で心地良い脳内麻薬が分泌されている。眠気とはこういう隙を狙ってやってくるのだ。あくびをこらえてテレビに目をやった。

 もう十九時である、千春は何時に帰るのだろうか。あと数十分で良いから自室に招きたい。下心を巡らせていると、平穏からちょっとした非日常が垣間見えた。

 それはあまりにも突然だった。

『こんばんは、十九時のニュースです。数日前から行方がわからなくなっていた女性が、国道脇の雑木林で遺体となって見つかりました。死亡していたのは近くの中学校に勤める鳥居あかりさん三十一歳で、先週の月曜日から行方がわからなくなっており家族から捜索願が出されていました。

 遺体にはヒモのような物で首を絞められた跡があることから、警察は殺人事件として捜査を始めました。また発見当時は衣服を身につけておらず、全身には無数の残飯がこびりついていました。鳥居さんは何者かに拉致監禁されていた可能性もあるとして、警察は近隣住民からの情報を――』

 垂れ流していただけの公共放送に対し、麦倉一家プラス一名が絶句し、それぞれの対応を取った。いの一番に「これって悟の学校の先生じゃない!」と声を上げたのは麦倉母だった。

 悟は千春に言った、「やばい展開だな……」と。重々しく。

 千春が返してきた、「なんで死んだんだ」と。だいぶ軽い口調で。

 性格だとしても、千春は薄弱すぎである。二年生の時に担任だった鳥居には世話になっているし、昨今は新聞部の副顧問でもあった。確かに、問題児だった千春は、鳥居と度々言い争いになり引っ叩かれていたが――


 千春のどこかに憎しみがあったとんでも、悟は少しだけ怒りのような寂しさを覚えた。鳥居あかりが殺害されたことに対してではなく、軽薄すぎる千春の性格に対してである。

「私らもいつか死ぬんだよ。良いだろ、少しくらい死にうとくたって……」

 小さな囁きは悟だけが聞き取れた。それが千春の見解なのだろうか。

 重くて錆ついた、二度と開けることのできない錠前がじょうまえ、千春の心を開くのを拒んでいるのだろうか。

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