9 仁志の抵抗

 先ほどと同じく、植込みの陰に身を潜ませた悟は、強引に千春を屈ませた。梅雨だというのにさらさらした細腕から、香水の匂いが悟の掌に移った。

 が、質したいところはほかにあった。

「もう、荒っぽいんだから悟は。迎えが来たなんて嘘だったくせに」

「お前だって。わざわざ先生のところ行って盗聴器を忍ばせたのはなんでだ?」

 千春の、新聞部としての手癖である。校内新聞の記事にするわけでもないのに、事件を知りたがるのは副部長としての性だろう。

「バレてたか。お前は気にならないの? あいつらの話」

 盗み聞きを公言する千春は、受信機につながった二股のイヤホンを差し出してきた。一瞬考えたものの、悟はすんなりと片側のイヤホンを受け取り左耳に入れると、駐車場を囲う縁石の隅に座った。


 尻にひんやりとした感触を覚えてすぐ、

『――潮さん、生徒の教育がなってないんじゃないですか?』

 左耳から、若い刑事の嫌味が聞こえた。警察は自分が正義だとでも思っているのだろうか。教諭に対しての苦言は、ちゃんちゃらおかしかった。

『あなたたちほどではありませんよ』

 仁志の満面の笑みが想像できる一言のあと、『はぁ――』という溜息が聞こえた。進展しない会話を危惧し、ベテランの風貌が会話に割って入ってきたのだ。

『では数点お聞きします』

 仁志はイエスを伝えなかったが、『免許はもっていらっしゃいますよね』と、魚見が先を続けた。刑事は市民に対し、強制を任意として片づける。イメージどおりの姿勢に胸糞が悪くなる。

『潮さんは確か、バイクで通勤しているとか』

『普通免許は持っていますが、最近は燃費が良い原付ばかりで。ほらこのとおり』

『ゴールド免許とはご立派ですね――』

 主な移動手段が原動機付自転車の仁志への皮肉か、あるいはクッション言葉か、

『実はこちらの調べで判明したんですが、鳥居さんは潮さんと食事をした日、車を学校まで取りに戻っているんですよ。それについてなにか心当たりはありませんか?』

 魚見が一拍待ったあとに本題を口にした。

『わかりかねますね。彼女はあの日、海老野原駅から歩いて帰ったんですよ? わざわざ学校まで車を取りに戻り、飲酒運転というリスクを冒してまで、なにかしたいことがあったとでも?』

 海老野原駅から狗川中学校までは、徒歩で二十分から三十分はかかってしまう。夜間で、女の足で、飲酒していたとなれば、それ以上の時間がかかるのは明白だ。鳥居には、どうしても車を使う用事があったのだろうか。

『しかし潮さんは、鳥居さんを家まで送り届けたわけではありませんよね』

『ええ。じゃあ帰宅するフリをして、学校に車を取りに戻ったと?』

『いえ。鳥居さんの所持品から車の鍵は見つかっていません。もとい裸でしたがね。しかし車はアパートの駐車場に止まっていた』

『え? となると彼女以外の誰かが……』

 刑事の言い分――【誰か(仁志)が鳥居の車を動かし、犯行にいたった】と言いたげなのは悟にも理解できた。刑事は端から仁志を疑っているのだ。そういった疑心を量るのは、授業の問題を解くよりもイージーだった。

『その日、狗川中学校の門が閉まったのは二十一時だったと言います。つまり、誰かが車を取りに帰るのは容易ということですかな』

『ははっ、一トン近くの軽自動車を牛男が担いでいったとでも?』

 仁志の挑発に対して魚見の一笑が聞こえた。

『いえいえ。流行り物は難しいですなあ』

『でしたら、僕ではなく別の先生に聞いてみたらどうです?』

『そちらは、もう聴取済みでしてね。土曜日の夜、学校を最後に出た先生が門を閉めた時、駐車場に車はなかったそうです』

『暗がりで気づかなかった可能性もありますよね。あの駐車場、ちょうど街頭が切れているところがあって、今は少し暗いですから』

 刑事の返答がなかった。千春が仁志のポケットに忍ばせたという盗聴器は、小さな相槌や溜息までは感知しなかった。

『もう失礼しても良いですかね。僕も色々と多忙なんで』

 わずかな沈黙の末、先に口を開いたのは刑事ではなく教員だった。

 仕事の心配ではなく、煩わしい会話を切り上げたい思いが、短い言葉からも伝わってくる。刑事が最後に一言、二言止めてくるかと思ったが、それ以上の会話は行われなかった。ひとまず、仁志は解放されたようだ。同僚に挨拶した仁志が背を向ける様が遠くに見えた。


 生暖かい風に乗って線香の香りが鼻の奥を刺激した。頭がぼうっとするのは、場に呑まれていた証拠である。

「あの話だと、潮が鳥居を連れ去るのは不可能だね」

 千春が受信機とイヤホンをポケットに捻じこみながら、腰に手を当てて一笑した。

「呼び捨てやめい。まあ先生が嘘をついてるとは思えないし、すぐに疑いも晴れるだろ。死んじまった人間は戻ってこないけどな……」

「はあ、あとで盗聴器回収しないと。めんどくさ」

 山の霊園は涼しく、寂寞せきばくとしていた。小雨が降り出し、屋根の下に避難しようかと思った矢先、麦倉家のミニバンがやってきた。車内では、千春や母とは会話も弾まず、『通夜』という疲れを全面に出した悟は車窓を眺めていた。


 犯人は、残飯を全身に塗りつけてから鳥居あかりを殺した。

 性的暴行はなかったらしいが、正常を逸した行動に変わりない。

 都市伝説を模した無差別犯罪か?

 あるいは牛男にあやかった愉快犯のなれの果てか?

 動機も目的も、まだまだ闇の中である。

 悟はためらいの陰に、危険を覚え始めていた。

 本当にこんな怪事件に関わって良いのだろうかと。


 千春を――部員たちを、こんな危険な目に遭わせて良いのだろうかと。

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