二食目 牛男と事件

4 刑事の意向

 六月八日。

 金松きんまつ町はちょう梅雨入りし、天上には憂いの灰色がどこまでも続いていた。心がどんよりする、五時限目が始まろうとする時刻。部室にはまだ悟と千春の姿があった。

「眠くて動きたくない。千春や、次の授業フケませんかね?」

「たまには良いか。私も月曜はどうも眠いし、次の授業どうせ潮だし」

「千春って先生のこと、絶対ナメてるだろ」

「失敬だな。そんなことは――」

 へらへら笑い、あからさまに肯定を含んだ否定を口にした千春が、言葉の途中で廊下に目をやると、扉を隔てた向こうから不揃いな足音が部室に近づいてきた。

「げっ、誰か来るぞ。フケてんの見つかったら面倒だな」

「常套じょうとう手段使うかね。悟こっち来い」

 強引に手を引かれた悟は、掃除用具もろくに入っていない、部室の隅に設置されたロッカーに押しこまれた。あとから千春が同じロッカーへ強引に入ってくると、息が触れる距離で人間の温かさを感じた。


「――すみませんね、お忙しいところ」

「いえ、授業は自習にしておきましたから。それより捜査に協力するのが先決です」

 鳴りを潜めて数秒もせず、聞き慣れない声のあとに仁志の声が部室に入ってきた。足音は二つかと思ったが、よくよく聞いてみると三つあった。

 ぴったりとくっつく千春が、スマートフォンを取り出して画面をタップすると、イヤホンジャックに挿さったアマガエルのマスコットで腹部を突いてきた。

 どうやら、画面を見ろということらしい。

『捜査? 刑事が来たってこと? 鳥居の件かな? 穏やかじゃないね』

 千春の予想は正しいだろう。が、人がひとり行方不明になったくらいで警察は動かない。そうなると女教諭――鳥居の行方不明には、事件性が見えてくる。

「申し遅れました、私は捜査一課の魚見うおみと申します」

「潮です。わざわざご苦労さまです。どうぞ、お掛けください」

 ロッカーの中は蒸し暑く、身近な人間が重要参考人にされている事実が相乗し、服の中で汗が滲んでいった。


 魚見という男は声を聞く限り壮年で、悟は刑事ドラマに出てくる俳優の顔を想像した。ほどなくして椅子の軋みが聞こえた。本来ならば生徒が座るはずの場所に、無粋な大人たちが鎮座しているのだ。部室を選んだのは人目を避けるためだろう。壁に――もとい、ロッカーに耳があるとも知らずに。

「早速ですが、いくつかお聞きしたいことがありまして。潮さんは行方不明の女性、鳥居あかりさんとはプライベートでも仲が良かったようですがね」

「ええ。お付き合いとまではいきませんが、一緒に食事をすることはありました。今年から新聞部の顧問と副顧問という関係もあって、仕事を絡めた関係でしたけど」

 仁志が穏やかな口調で答えた。依然としてテンションが張りつめていたが、普段は聞けない教員のプライベートが見えてきて、少しわくわくした。

「そうでしたか。最後に食事をしたのはいつですかな?」

「確か先々週の土曜、五月三十日です。あの日は、ちょうど帰宅する時間が重なったので、仕事の話を含めて夕飯に誘いまして」

 部室の空気は淀んでいた。原因は取調室にも似た、圧迫感か何かだ。これなら、国道で吸う排気ガスまみれの空気の方がよっぽど美味しいと感じるだろう。

「ふむ。食事は何時から、どちらで?」

「学校から最寄の蟹ノ穴かにのあな駅の居酒屋で。学校から駅までは徒歩で約十分です。十七時前に学校を出て、居酒屋に着いたのは十七時を少し回ったくらいでした」

「なるほど。店を出たのは何時頃でしたかな?」

「うーん、確か二十時前でしたかねえ」

「早めに切り上げたみたいですな。食事のあと、潮さんはまっすぐ家に?」

「彼女はあまりお酒が強くないので。僕と鳥居さんは、隣駅の海老野原えびのはら駅で一緒に降り、改札で別れましたよ」

 ロッカーの通気口は上部に取りつけられており、部室の様子が窺えない。

 想像でしかないが刑事は斜に構え、肘をつきながら右手の甲に顎を乗せ、言動を疑う眼光をしているのだ。対する仁志は、聞きこみという名目で刑事と面と向かうこと自体、良い気分はしていないはずだ。

「ということは、お互いにお酒を?」

「はい、翌日は日曜でしたからね。彼女は、不満もあるけどやりがいがあると何度も言っていました。自分が教師であることの誇りを常々と」

 仁志が言葉を区切ると、ロッカー内の千春が溜息をついた。熱心に人差し指を動かし、スマートフォンに、

『なにがやりがいだよ! あの女に誇りなんてあんのかよ!』

 という悪態を表示させ、悟に提示してきた。

 千春と鳥居の関係性は、ほとんどの同級生が知っている。問題があったのは千春の態度か、鳥居の性格か――どちらにせよ水と油だった。


「かなり出来上がっていたみたいですな。潮さんはどれほど飲まれたのです?」

「僕は翌日に仕事を持ち越していたので、軽いお酒を一、二杯だけ」

 仁志の声は落ち着かない様子だった。普段、教壇に立っている人間とは思えないくらい声に張りがない。

「休日までお仕事とは大変ですなあ、いや教員の鑑というべきか」

「ははっ、刑事さんも同じでしょう。ところで……やはり、なにか事件に巻きこまれた可能性があるんですか? まさかとは思いますけど……誰かに拉致されたとか」

「心配なのはわかりますが落ち着いてください。ところで潮さん、通勤方法は?」

「あぁ、僕は原付で通勤しているんです。なので原付を学校に置いたまま帰宅しました。彼女も同様に車を学校に置いて、海老野原駅からは徒歩で帰宅を。自宅まで送ろうかと思ったんですが、方向が違うから大丈夫だと。僕は翌日の日曜、午後から電車で学校に向かいました」

「そうですか」と壮年の声が相槌を打ったあと、「おい、確かその件は――」と、確認のように、仁志以外の誰かに呼びかけていた。

「はい、日曜出勤した別の教員が、潮さんのバイクが止まっているのを目撃しています。防犯カメラは、校門、昇降口、来客用玄関、校舎外の通路、計四ヶ所なので車両専用出入口の映像はありません。翌日月曜から鳥居さんが無断欠勤しています」

 ほどなく、第三者――若い男声が聞こえた。刑事はふたり一組で聞きこみをするという。おそらく行動をともにする相棒だろう。

「そうなると、海老野原駅から自宅に帰る間が怪しいですなあ」

「怪しいってどういうことです?」

「鳥居さんと同じアパートに住む両隣、そして上の階と下の階の住人が、土曜の夜から日曜日は、部屋から一切の物音がしなかったと証言しています」

「つまり家に帰っていない?」

「もしかすると、何者かに連れ去られた可能性もあるんですよ」

「そんな」

 確信めいた憶測が宣告されたあとも聞き込みは続いた。

『行方不明になる以前、女性教諭に変わった様子はなかったか』や『なにか相談などを持ちかけられてはいなかったか』など、中学生でも思いつくようなありきたりな内容ばかりで、仁志のトーンが落ちてゆくのがわかった。


 質問が続いたのは、二十分ないし三十分だったろうか、

「――ご協力ありがとうございました。なにか気になる点や、思い出したことがあれば、なんでも結構ですので、私たちにお知らせください」

 刑事たちが立ち去ってゆく足音のあと、わずかに沈黙が流れた。

「なんてこった。本当にあの人は行方不明なのか……無事で居てくれよ」

 仁志が漏らしたのは同僚に対しての悲痛な独り言で、そのあとは感傷に浸った溜息ばかりが聞こえてくる。

『この雰囲気じゃ出らんないね』

 溜息をつく千春の気遣いに、悟は軽く頷いた。

 空気が薄くなり、息が荒くなってゆくロッカー内。互いの体が触れ合い、汗が交わってもなお、その場を動けなかった。

 仁志が退室したのはそれから十分ほど経ってからだった。五時限目が終わるまで、もう十分もない。ぜえぜえと肩を上下に揺らしながら新鮮な空気を吸い込む悟は、最寄の机へ手を置き、大きく息を吸った。

「はぁ……酸欠になるかと思った」

「ふう。ロッカーの中でふたりきりとか、ときめくのはマンガだけだね」

 仮に、ロッカーで相席したのが『大好きな女子』だったら、もう少し興奮したのかもしれない。互いに呼吸を整え、生を実感しながらそっと教室に戻った。


 ――六時限目を寝て過ごした放課後。新聞部の部室には珍しく仁志が居た。

「ねえ先生、疑われてんでしょ。刑事の意向なんてお見通しだ」

 顔を合わせるなり、千春が仁志に詰問した。相も変わらずストレートな物言いで、仲裁に入りたくなるほどの不穏な雰囲気だった。

「米田……。これは仕方ないんだ。鳥居先生が居なくなる直前まで僕が一緒に居た。だから、重要な参考人として同時に疑われるのも無理はない」

「事件性がない限り刑事は聞きこみに来ないし、拉致確定かね」

 本日の部員の話題は、部活の有り体や七月号の進捗ではなく、浮かない顔をする仁志に対しての励ましだった。

「オレたち新聞部っすよ! 牛男の正体を暴けば先生の疑いも晴れるっす!」

「芋岡……生徒を危険な目に遭わせるわけにはいかない。気持ちだけ受け取るよ」

「で、でもー? あたしたち先生が疑われっぱなしはヤですよう」

「でもじゃないだろ? 稲川もいい加減にしないか。遊びじゃないんだぞ」

 仁志の威圧に二年生が黙りこんでしまった。ついさっきまで刑事からの圧迫を受けていたのだし、きつく当たってしまうのは無理もない。教諭とはいえ、彼だって中学生と二十ほどしか歳が離れていない、まだまだ未熟な人間である。


 事情を理解しているはずの千春だが――「ったく……」とつぶやき、定位置に腰を下ろすと、足を組んであからさまな態度を取っていた。

 悟は信じていた、仁志が犯人ではないことを。千春だって同じ気持ちに違いない。普段から感情を露にしない分、秘めた思いというが余計に伝わってくるのだ。

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