食材の罪(牛)

 某日。

 闇が支配する時間帯。は三十代の女を誘拐した。

 女には朝と夜、合計二回の食事を与えていた。腹が一杯になる量を用意し、食事の時間もたっぷり取ってやった。食べ残しは、ふたのついた青いポリバケツに捨ててやった。ただ食事は、必ずの監視下で行わせていた。


 裸電球をひとつばかり吊るした殺風景なプレハブ小屋の隅、女は監禁された動機もわからず、今日も木製の床にへたり込み、顔面を蒼くしている。

 縛られた縄を全身に食い込ませながら、ミミズのように床の上で踊っている女があまりにも滑稽で、は顔全体を隠すマスクの奥で満面の乱心を浮かべていた。

 部屋にはデジタル時計が壁にかけられ、日時と室温と湿度を示している。二十九度の蒸し暑い室内では、六本足の黒い昆虫が女の眼下を、かさかさと何匹も往来していた。そのたび女が黄色い声を上げ、湿気とは異なる不快指数が上がってゆく。


 プレハブ内は酷い空気だった。マスクを被っていても鼻が曲がりそうなそれは、食物の腐敗臭である。肉か、魚か、野菜か、人々の糧になれなかったものたちのアンサンブルは、修行とか苦行とか自分に言い聞かせても、なかなか慣れる臭いではなかった。換気扇は設置されているが回ってはいない。

「先週、お前はなにを犯した?」

 は柄と刃が一体化したオールステンレスの牛刀を握り、女に近づきながら問いを発した。ボイスチェンジャーを噛ませた、くぐもった声が狭い空間を跳ね返る。

「なんのこと……」

 声を震わせる女は思案顔をしている。

「もう一度聞く。先週の昼、お前はどんな過ちを犯した?」

 は構わずに先を続けた。

「せんしゅう? だって覚えてない、そんなの覚えて……うっ……」

 圧迫された空気に耐えきれなかったのだろう、女は胃の内容を吐出した。苦しそうに、また己が犯した罪を懺悔するように。衣服を汚しながら、床に広がったそれは相応の臭気だった。

 吐物とぶつを踏みつけながら女に歩み寄った。足の裏に広がる生温かい感触は、これっぽっちも気に留めていない。

「待って! ほんと! 本当になんのことかわからないの!」

「無意識とは言いがたい所業。その罪は重い」

 は、女をつないでいる鉄鎖てっさまでも一刀両断してしまいそうな牛刀で、女が何日も着衣し続けていた仕事着、下着を切り裂き、布という概念を取り除いた。

 ほどなく、女を『ひとりの存在』にしたあと、怒りよりも強く湧き上がってくる喜びを下半身に感じていた。性的暴行を加えるためではない、正義を果たすためである。


「やだ! 乱暴しないで!」

「命が惜しいか? ならば私に従うんだ」

 操をみさお守ろうとした女が身構えるが、はあらわになった素肌には見向きもしなかった。強く言い放ったあと、ポリバケツからすくった適量の残飯を、女の顔面、胸、へそ、下腹部、肛門など、あらゆる部位へ執拗に擦り込み始めた。

「え? え?」

 牛男が振るった初めての『暴力』は、女の予想を越えていたのだろう。抵抗せず、肉声を静かにこぼしながら、目を見開いている。

 理解するのをやめたのか、理解に時間がかかっているのか、あるいは自分で食べ残した食事を理解し、受け入れているのか。どういう理由だろうと、女の嗚咽は多彩な感情を表していて愉快だった。

「わかるか? ここ数日でお前が残した食事だ。この状況で食事を残す根性は大したものだ。本来なら極刑だが、私も鬼ではない。今から償いをさせてやろう」

 一拍置くと、は新たな残飯を女の体に塗り込み始めた。肌色を隠し、デコレーションを楽しんでいた。加工食品を扱う場でよく見る、天然ゴム製の透明の手袋をはめているのは、女との差別化を表すためだ。

 震える女の肌から手を離すと、はフィニッシュにかかった。床に置いていたバケツを両手で抱えたあと、女の頭上でくるりと半回転させた。

 バケツに残っていた残飯はすべて、にわか雨よろしく女体へ降り注ぎ、部屋の異臭を増していった。の眼下で出来上がったのは、料理を盛りつける大会で一位を奪取しても不思議ではない作品である。


「さあ。その醜い体を飾ってくれている、芳醇な食べ物をすべて胃の中に収めるんだ。それがお前の償いだ。食べきれない量ではあるまい?」

 バケツを丁寧に床へ置いたは冷徹に指示した。言葉を処理しながら、女は遠い世界にトリップしている。例えば――体に染みついた臭いなんて、そうそう取れるものではないとか、新しい仕事着を新調しなくてはならないとか、現実へ戻ったあとのことばかりを描いているのだ。

 女は今、最終防衛ラインで踏ん張れるか、死という安楽を選ぶかの二択に置かれている。それを気づかせるため、「食べるんだ!」と大きめに催促した。が放った、精一杯の優しさだった。

 女が肩を跳ね上げると、髪にへばりついていた脂分が床に落下した。女は慌てて、左手に付着していた、まだ腐っていなさそうな今日の朝食に目をつけた。鮮やかな色の野菜が、サラダの一部を思わせる。

 体中を滑り落ちる何かの液も、米粒と予測できる白い斑点も、もう食事と呼べる代物ではない。だからこそ相応の罰を受けているのである。食物を腐敗させてしまったのは、女の腐敗した心だからだ。

 決心したように女が目をつむり、手でつまんだそれを恐る恐る口に運んだ。咀嚼する間もなく、舌の上にある悪心を顔に宿していった。

「うぇっ! こんなの、無理! で、です……」

 唾液が絡みついた残飯が、女性らしい華奢な掌に垂れる。

 目を潤ませ哀願する女に対して、は喉元に突きつける切っ先と、床に置いた大きめの砂時計――ふたつのアイテムで、意向をはっきりと伝えた。

「砂時計がお前の命だ。食べようが、食べまいがお前の自由。どちらにせよ、この時間をしっかり満喫するんだな」


 最終通告のあと、女に備わっていたリミットが吹き飛ぶ音が聞こえた。彼女を突き動かしたのは生存本能しかないだろう。死というイメージが現実に迫った瞬間、猛烈な勢いで体に付着した残飯の処理にかかったのだ。

 ぬるぬるする油をまといながら、割れ目にこびりついていた物を手ですくい取り、口が届く部分は野良犬のように舐め取り、一心不乱に残飯を口へ運び続けている。なるたけ舌に触れないように、味覚を可能な限り無視し、飲み込むだけに集中しているのが傍からもわかった。

 数えきれないほどの嘔吐えずき、それを内から抑える自制の強さは人一倍だったのかもしれない。喘息とねぶりだけが耳を刺激してくる一室で、どれくらいか。時間を忘れ、大粒の涙を落しながら女はほぼほぼ残飯を食べ終えた。

 根性というか、精神が壊れてしまっただけというか――実に粋だった。

「もうやだ無理なの! 体なら自由にして良いから許して……許してください!」

「食材の罪。その意味を教えてやろう」

 が、遅かった。女の懇願こんがんは笑った。平常を失った女が視界の隅で捉えていたのは、自ら時の刻みを放棄した砂時計だったのだ。

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