第四話 男の城――俺には帰る場所がある。

 時は、平成二十九年五月三十一日水曜日の午後八時を過ぎたところ。

 ところは、岐阜県の恵那市――より正確に言うと、JR中央本線「恵那」駅から車で二十分ほど離れたところにある、二DKのアパート。


 人類史上初の『魔法中年』となった榊原さかきばら平次へいじは、二年前に中古で購入した軽トラで恵那市中央図書館から自宅まで移動した。

 彼の服は鮮やかなピンクのグラデーションのままである。

 図書館の中庭では帰宅途中の中高生に恐怖の眼差しで見つめられ、信号待ちで並んだ隣の車の運転手に仰天されつつ、彼は変な汗を流しながら車を運転した。

 最悪の事態であるところの「アパートの住人にその姿を目撃される」イベントこそ回避したものの、家についた時には彼は疲労困憊していた。

 平次はベストの胸ポケットから、土まみれになった魔法生命体『ルンルン』を取り出すと、玄関脇にあるキッチンのシンクに放り込む。

 ルンルンは、まるで雨上がりの側溝の片隅に張り付いている、ビニール袋の切れ端のように見えた。

 平次は、しばしその姿を見つめたところで、そのまま蛇口を捻った。


「ぶばばば――いきなり水をかけないで下さい、お願いですから!」

「なんだ、生きてるじゃないか」

「当たり前ですよ。それに自分が死んだら魔法が解けるはずでしょ」

「ふうん、そうなんだ」

「そうなんです――って、なんだか水の温度が変わっているような気がするのですが……熱っ、やめて下さい自分が悪かったですお願いです何でもしますから!」

「いや、その、お湯をかけたら縮んだりするのかなあ、と」

「縮みません!」

「そうか、いや、すまんすまん」

「熱っ――謝りながらお湯を出すのは止めて下さいお願いですから」

「分かったよ。じゃあ、洗剤はどうだ?」

「別にそんなのなくても汚れを落とすことぐらい自力で――って、全然話を聞いてないじゃないですか!? あ、何を、ぼべべべべ……」

「こうやってよく揉むと汚れが落ちやすいんだよ」

「ぶぼぼぼぼぼ……」

「なんだ? 急に静かになって。死んだのか? まあ、物理攻撃は聞かないという話だったから、大丈夫だろうけどな」


 *タバコをふかしながら、ルンルンをドライヤーで乾かす平次。

  しばらくすると、ルンルンの体毛が微かに蠕動する。


「おお、起きたか」

「あ、はい。只今目覚めました。有り難うございます。実に心地よい体験でした。まるで生まれ変わったかのような気分です」

「生まれ変わった、って……そういやお前、何だかさっきまでと言葉遣いが変わっていないか?」

「はい、そのようですね。どうやら、身体の表面に付着した汚れを洗い流すと、本来の魔法生物としての高度な思考能力と卓越した事務処理能力が復活するようです」

「ふうん。でも、さっきは自分で綺麗にできるもん、って言ってなかったか?」

「もん、とは言っていませんが――確かに、自分で身体から汚れを落としてもなりませんね。それに何だか、自分でやったときよりも綺麗になっている感じがします」

「そうかい。まあ、使ったのがプロ仕様の強力油汚れ落とし洗剤だからな」

「なにやらその『強力油汚れ落とし洗剤』という語感が不穏ですが、まあ良いでしょう。有り難うございました。本当に生まれ変わったような感覚です」

「なんだか都合の良い設定だな。じゃあ、魔力も回復したのか?」

「いえ、それはまだです。さすがにそれでは三文小説みたいに都合が良すぎますからね」

「どっちもどっちだと思うが、まあ、話が早くていいや」

「お褒めに預かりまして恐悦至極に存知――って、何をなさるんですか!」

「いやなに、タバコの煙をかけたらまともな言い方に戻るのかなと思ったもんだから。その小賢しい言い方が気に入らないもんでな」

「仕方がないじゃないですか、実際に賢いのですから――って、ですからタバコを吹きかけないで下さい!」

「あ、ごめんごめん」

「反省なんかしてないじゃありませんか。本当にもう」

「分かった分かった。それにしても、煙が効いたらしいな。今の言い方ぐらいならば我慢してやるよ」

「私としては大変不本意ですが、有り難うございます」

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