二章

隣の青い芝生

 いつも通りの日々が始まった。

 四月始めは何かと新鮮な空気で、緊張した面持ちの新入生とすれ違う度、上級生としての余裕と、一番この学校にいるのにもかかわらず初めて来た場所のような不思議でくすぐったい感情を抱く。しかしそれもほんの数週間で慣れてしまう。新入生も日々の授業や部活動に追われ、気づけば立派な高校生になっていく。それは二年生でも三年生でも同じで、自分たちが一つ学年が上がったからといって「まあ、こんなものか」と呟いて同じような日々を送る。

 しかし、目の前に出される物が立場を呼び起こす。


「……はぁ」


 ぽつりと香取は呟いてしまった。そんなことは誰しも思う、もしくは、こんなことで音を上げるくらいなら早々に退散すればいいと言われんばかりである。

 机に置かれた数頁の冊子とマークシートは現在の学力を証明してみろと主張する。


「よし。始め」


 全員の机に配られたのを確認し、担任の龍田が短く声を発する。同時に我先にと静かなる動作で冊子が捲られ、そして黒点を刻む音がする。

 全く分からないでもない。苦手はあるが、解けないこともない。それでも試されるのは緊張するし、記憶が思い違いだったら恐いなと思う。限りある時間の中で一通りできなかった時は、敗北感と自分の無力さを感じる。

 全神経を集中させ香取は文字の羅列を目で追った。




「朔ちゃんお疲れさま~トマト食べる?」


 模試を終え、今日一日の授業が終わり、電車までの時間を中庭で潰すためベンチに座っていると目の前に黄色い大きな籠が現れた。


「ん。つゆ。それ売り物じゃない?」

「うん! はい、百円です!」


 顔をあげるとオリーブ色の帽子を被った少女がにっこりと笑った。ベージュのブルゾンに同色の綿のパンツ。いわゆる作業服に身を包んだ女子生徒の名前は息栖いきすつゆり。香取と同じ高校三年生。農業科である。手に持っている籠にはパック詰めされたミニトマトが宝石のように採れたての張りを輝かせている。


「リコピンはお肌にいいんだよ」

「タダだったら…」


 香取がジュースを一口飲むと、ケチーと言いながら息栖はケラケラ笑った。


「模試どうだった? ハルちゃんに聞いて本当大変だなぁって思ってたんだ」

「どうだろ。一応全部埋めたけど…つゆは当番だっけ?」

「そうそう。センセーがこれ売り切るまで帰ってくるなって。お客さん、安いですよ?」

「……タダだったら」


 そう言って二人は吹き出した。

 農業科には放課後、当番という授業の延長のような時間がある。大体一時間程度で、その後は帰宅したり、部活に行ったり普通の高校生と変わらない。それでもやはり違う世界に見える。教室に縛り付けられた授業ばかりでない、自由、とは言えないがのびのびとしているような彼らを香取は羨ましく思う。もちろん、農業にだって頭の回転や器量の良し悪しは大きく関わるし、土に手を汚し、虫だって相手にしなくてはいけない。友人の中には農業科を馬鹿にする者もいるが、そもそも目標や目的が違う世界を比べてはいけない。お互いにできることとできないことがちゃんとあるのだから。


「あー!トマト売ってるの?三パックくらいくれる?」


 中庭に面した職員室から女教師が「おーい」と息栖を呼んだ。


「加茂ちゃん! いつもまいど!」


 加茂と呼ばれた女教師の姿に息栖は満面の笑みを浮かべて職員室の窓際へ走っていった。加茂は社会の先生であるが、息栖の様子から購入者としてお得意様のようだ。加茂が声をかけたおかげか、数人の教師が窓際に寄って息栖からトマトを買っている。アルバイトをしなければこんな経験できない。農業科生徒を見るたびにその逞しさを目の当たりにする。

 息栖が忙しく販売していると、支払いを終えた加茂が今度は香取に声をかけた。


「香取さーん。明日、部会開くから招集お願いできる?」


 加茂は香取が所属する写真部の顧問だ。


「はーい! みんなに回しておきまーす」


 香取は立ち上がって少し大きめに叫んだ。加茂が「サンキュー」と手を振って窓際から消えると同時に、息栖が香取の元へ戻ってきた。


「全部売れた?」

「ううん。後一個残ってるの。ねえ朔ちゃん」


 黄色い籠には一つ残された寂しそうなトマト。そして残念そうな息栖の顔。


「どうするの?」

「どうしようね。朔ちゃん」

「……」

「……リコピンは……」

「はい、すみません。ケチってすみません。買います。買わさせていただきます!」


 なかなか商売上手かもしれない。にっこり笑いながらトマトを差し出す友人を見て香取は苦笑いを浮かべた。

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