行く春の湊

 桜の散った後はとても美しい。桜色の海がそこに広がっている。誰も踏み込んでいないまっさらなその地面は、まるで神聖な場所であるかのように人の往来を拒んでいるようで。

 香取は息をするのも忘れるくらい、その風景に見入っていた。待ち望んだその時が来たのだ。

 カシャ。ファインダー越しにその風景を射止める。何度かシャッターを押し、カメラを持ち替えてもう一度。今度はモノクロ写真用。香取の自前のカメラで、フィルムカメラという、いわゆるレトロな、デジタルでない、カメラである。何度か使っている香取でさえ、フィルムは感光せずセットできたか、巻き取りの突起にしっかり引っかかっているのか、露出はこれでいいのか、現像するまで、いや、現像するときのことまで考えると、写真として浮かび上がってくるまで気が気ではない。それでも意を決して構える。この桜色は写らなくても、この神聖な場を切り取ることができる。誰も生身では見ることのできないその世界を。何度もシャッターを押し、時折露出を調整してみる。

 そして、名残り惜しくもカメラをしまう。そろそろ始業の時間だ。

 この美しく広がる桜の海に自分が初めて一歩を踏み出せるのはうれしくもあり、汚してしまうという背徳感もある。新雪に誰よりも早く飛び込む子どものような気持ちだ。一歩踏み出せば足裏の風圧を感じ、花びらがふわりと靴の左右に避け、哀れにも逃れそびれた花びらは僅かに残る細胞の水分を地面に滲ます。春が、終わる。春の象徴、桜は、もう散っている。


「あ、香取。やっぱりここにいたんだ」


 そんな情緒に浸っていると、それをぶち壊すようにのんきな声が背後から聞こえた。どこかで同じことがあったような気がするのは間違いない。

 香取はすぐに振り向くのがしゃくで、一、二歩進んでから振り向いた。相手は分かっている。


「おはようございます、石上君。奇遇ですね」


 まだよく知らぬ、だが、相手はいつの間にか呼び捨てになっているその現状には気づかないようにして香取は丁寧に、またの名を他人行儀を心がけて挨拶をした。石上も「おはよう」と返し、引いている自転車ごと桜の海を泳いでくる。ああ、どんどん乱れていく。先ほどまでまっさらだったその場をかき乱されていくことに憂いている香取を他所に石上は香取の横まで来ると、


「この前はごめん。鹿島に話したら怒られて。ちゃんと帰れた?」


 この前とは、一週間以上も前の、電車乗り過ごし事件のことである。

 香取が、何の用もないのに石上に呼び止められ、話している間に乗るはずだった電車は次の駅に向かい、その後も会話が弾むことなく。悪びれもなく「じゃ俺はこれで」とさっさと帰っていったアフターフォローもない男。周りに店はあるもののお金もあまりないし、大して時間も潰せないのに三十分以上一人で待たなければならなくなった、香取の石上に対する印象は最低だ。しかし、鹿島に言われたとはいえ、こうして謝ってくるとは少し見直した。後、気になることが一つある。


「う、うん。まあいいです。ちゃんと帰れたんで。それよりもなんで私がここにいるって?」


 ここは、駅から延びる正門とは逆、裏門に通じる細い道。登校する生徒にとって校舎に向かうなら遠回りになってしまう。今もこの桜を目当てに来た香取以外誰もいない。そして石上は「やっぱり」とそう言った。


「桜が散ったから」


 石上は新たに舞い落ちる桜を見るように空を仰いだ。花を散らした桜の木には小さな新芽が吹いている。


「あ…そう、だね」


 答えになっているようななっていないような。相変わらず何が言いたいのか分からない石上に香取は困り果てた。


「…去年もここにいただろ?一応鹿島にも聞いてみたけど、本当にいてよかった」

「え?」


 石上は空を見上げたまま、そしてゆっくり歩き出した。自転車の車輪がキィと鳴って、香取も慌てて歩き出す。

 香取は自然の流れで並んで歩くことになった石上をちらりと見た。自分より頭一つ分くらい背が高く、野球部らしい短く刈りあげた頭髪に浅く焼けた締まった顔つき。ちゃんと見ていなかった分、改めて見ると、どうしてこんな状況になったのか恥ずかしさが湧き上がってくる。高校に上がってからというもの、クラスの男子でさえこんな風に接していない。時代の流れから言えば香取は少し恋愛において遅れているといわれるタイプであるかもしれない。単に興味がそこまでなかっただけのことであるが。それでも、これが恋愛感情と呼ばれるものではなくても、ドキドキと胸が脈打つのを感じる。

 裏門を通り過ぎ、先に石上が入る校舎が見えてきた頃、始業の予鈴が鳴り響いた。


「あ…私急がなきゃ!ごめん石上君!」


 香取はハッとして駆け出した。香取の校舎はまだもう少し先。なんだか石上といるといつも世話しない気がする。そんなことを思いながら、最低な奴だと思っていた相手に咄嗟ではあるが謝ってしまった自分に驚きながらも、もはや石上を見ることなく先に行くことにした。石上も後ろから声をかけることなく香取を見送った。

 



 そして、無事遅刻せず自分の席に着いた香取は、荒い息を鎮めながら、冴えてくる思考の中で、石上のことを思った。

 きっと鹿島のせいだが、自分の知らないところで既に名前と顔を知られていたこと。

 自分もそうだが、何も言わず一緒に歩いたこと。まして向こうは自転車なのに。

 そして、一年前もあの桜並木の下にいるのを目撃されていたこと。

 写真を撮るのを待って、声をかけてくれたこと。


 言葉の少ない石上から本心を見抜くことは難しい。しかし、今日、いや、あの野球ボールが偶然に転がってきた時から、ずっと同じ学校にいたのにも係わらず、知らぬ世界にいた石上が、香取朔の小さな世界に存在し始めたのだった。


【一章 完】

 


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