猫はのんきに欠伸する
時計を見て歩調を速める。電車が発車するまで後十分。駅まで八分。それを逃すと三十分は電車が来ない。遠い人にとって利便性とは一体。
香取は額にうっすら汗をかき始めながら急いでいた。
『ごめんさくっちょ!本当にごめん!』
去り際に鹿島がものすごくあせあせしながら謝ってきたのを思い出して、その様子が面白くて思い出し笑いをしてしまった。
午前中の学習会後、お花見と称して外で昼食を摂り、学習室に戻るか、図書室に行くかで悩み、もう数字は見たくない、の鹿島の意思で英語が行われる学習会を選んだ二人は二時間、今度はローマ字の魔術に引っかかってしまった。それでも数字よりは優しく見えて、鹿島も辞書とにらめっこしながら、途中ALTのマリア先生の介入によりぎこちなくも楽しい英会話をしたおかげで満足のいく学習会を終えることができた。
香取は電車、鹿島は徒歩で帰宅する。香取の電車の時間まではまだ四十分もあったため、二人は購買の自動販売機で缶コーヒーを買って近くのベンチに座った。
「あーーー疲れた!この苦しみも後一年と思えば!」
コーヒーを一口飲み、大きく背伸びする。微糖なのに頭をフル回転させた体にはより甘く感じられ、食道から胃に流れ込む糖分が要所要所で沁み渡っていく。
「遥は本当にすごいよ」
香取も鹿島よりも甘いコーヒーをすすり、ゆっくり流れていく空の雲を見つめた。時折、雲と雲がぶつかって大きな雲になっていく。
「いやいや。普段からあんな勉強してるさくっちょの方がすごいよ。私は実習もあるし、植物に触ってるから気も紛れるけど、ずっと座りっぱなしでずっと教科書ノートとにらめっこの学校生活なんて息が詰まりそう」
「確かに。ほとんどもう終わってるから後は参考書をひたすらやっていくだけなんだけど同じような問題なのに躓くともうこれなんだったけなって一瞬分からなくなる。考えすぎて煮詰まる感じ。だから息抜きは必要」
そういって香取は自前のカメラを出した。
香取の趣味は写真である。それが故に写真部に所属している。風景もいいが人物もいい。できれば自然体の人物がなおよい。生きているもの、息づいているものの一番美しい瞬間を捉えることができた時の高揚感。自己満足の世界だが、誰か一人でもその気持ちを感じ取ってくれる人がいたらそれはとてもうれしいことなのだ。
「さくっちょの写真、私好きだよ。カラーもいいけどモノクロ…あ」
鹿島は香取のファンの一人である。香取の写真の話を思い返していると何か思い出したように小さく声を上げ、「あの時かな?」と独り言のような言葉を吐いた。そして香取の顔を見た。
「たぶんだけど、さっきの石上の話」
「え?あ、うん」
飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになる。とりあえず飲み切って鹿島の顔に顔を向けた。
「去年の文化祭かな?野菜売り終わってから写真部の展示見に行ったんだけど、その時、石上が先に入ってて、丁度さくっちょの作品の前にいたんだよ。んで、これ私の友だちの作品って自慢した、気がする」
「…はあ、なるほど?」
なんだかよくある話というか、誰でも見れるようにしてあるから、それはよく起こる出来事というか。解決したようなしないような複雑な気持ち。
「もかしたら、ことあるごとにさくっちょの話がでたかも?」
「そこ重要じゃない?重要かな?どっちでもいいのかな?とりあえず名前覚えられてる原因が分かったからいい…ことにする」
野球部で農学科の男の子が写真に興味あったんだ。という偏見にも似た感心をし、香取は時計を見た。
「あ、そろそろ駅に向かうね。遥は明日も来るの?」
空になった缶をゴミ箱に捨て、香取はカメラをしまったカバンを背負った。
「来るよ。明日は世界史だからね!得意分野は百パーセントにしておかないと!」
「そっか。私はどうしようかな。また後でメールする。じゃあ今日はありがとう!またね~」
「こちらこそどうも~…あ!ちょっと待って」
ひらひらと手を振って歩き出した香取に、鹿島が小走りで近寄ってきた。
「ごめんさくっちょ!本当にごめん!」
「え?え?何が?」
「私気づいていないだけで何か余計な事してるかもしれない!石上の件だってもしかして迷惑かけてたらごめん!」
能天気で、それでいて真面目でたくましくて、誰とでもすぐ仲良くできる(あんまり相手のことを気にしない性格のせいもある)鹿島は時々、イレギュラーな言動で他人を巻き込む癖がある。今回の場合は香取の知らないところで香取の話をたくさんしたことだろうか?
「えっと…その石上君のことは今日初めて知ったことだし、別に遥が私のことを悪く言っているわけじゃなければ問題ないのでは?」
そうだけどそうだけど!と鹿島はあせあせして謝ってくる。
「あ、時間まずいからごめん!えーっと気にしないで!私も気にしてないから!」
香取がそう言うと、鹿島も今度は足を止めさせてごめんと謝って大きく手を振って香取を見送った。
鹿島は何も悪いことはしていない。自分のことを自慢してくれる優しい子。友だちになれて本当によかったなと香取は一年生の時のことを思い出した。
一年生の頃はどの学科もみんな同じ階に教室があって、学習会や行事など交流が多かった。そこで友人の一人である鹿島と出会ったのだ。今では教室棟が分かれてしまっているが昼食やちょっとした空き時間や部活のない放課後に会っている。そんな日常も後一年か…。そんなことを思いながら電車到着まで後二分。駅はもうすぐだ。帰路に向かう電車は階段を昇った向かい側のホームだからもうひと踏ん張りしなければならない。参考書の入った重みのあるカバンをも一度背負い直し速度を上げようとしたその時、急に後ろから声をかけられた。
「あ、香取…さん」
とっさに足を止め振り向くと香取は小さく息を呑んだ。呼びなれない言葉を口にするようにうやうやしく声を発したのは、まさに先ほどまで話題に上がっていた石上大和だった。その姿は野球の練習着ではなく、帰宅途中の制服姿だったが、自転車を引いているところを見ると電車通学ではないようだ。
「エー…っと、は、遥から聞いたけど、その石上…君?」
急に声をかけられたことに妙な声色になりつつ、仮にも親友のクラスメイトに失礼がないように言葉を返す。自分の名前を呼ばれた石上は目にも分かるくらい驚いた表情をした。
「あ、そっか。アイツ今日学習会行くって言ってたもんな。もう終わったの?」
今朝方出くわしたことをカウントしなければ、初対面といえば初対面であるはずなのに気さくに話し出す石上に、更に困惑する香取はじりっと一歩後ずさる。
「あ…はい。終わりました。そっちも練習終わったんですか?」
なるべく丁寧に言葉を選んで話してみた。
「そうなんだ。俺も終わったとこだけど、勉強なんて大変だね」
「・・・・」
この会話はいつ終わらせればいいのだろう。香取は内心ひやひやとした。その時、背後から電車の発車を告げるベルが鳴った。
「え?あれ?ちょっと今何時!?」
さっきまでの丁寧な言葉は吹き飛んで香取は石上に時間を確認させた。石上は何のこともなくスマートフォンの画面で時間を確認した。
「十五時四十五分」
「うそ!到着アナウンスなんで聞こえなかったの!それ聞こえてたら間に合った…かもしれないのに!」
駆け込み乗車は大変危険です、どころか駆け込むこともできない。そして呆然とする香取。次の電車はまた三十分後。
「…石上君、私に何か用だった?」
別に呼び止めた彼は悪くない。そう優しい気持ちを何とか湧きあがらせようと石上を見やると、少し肌の焼けた目の前の少年はこう言った。
「いや、別に?何もないけど」
こいつ…なぜ傍から見ても急いでいるって分かる私を呼び止めたし。
香取はぶつけようのない怒りを腹の底に押し込むように大きく息を吐いた。それに連動するように、駅の古ぼけたベンチに座っていた猫が大きく欠伸をした。
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