見えているのに見えにくい春霞
「ああ、それは
対面に座る鹿島遥は何のこともないようにそう言った。
「だよ、じゃなくて、なんでその人が私の名前を知っているのかってこと!」
そういって香取はハッとして口に手を当てた。少し声が大きすぎたかもしれない。周りにいる他の生徒がちらっとこちらを向いた。
校舎の三、四階にはいくつか学習室がある。本日の学習会は通称ゼミ3という長机がいくつか並び、先生が壇上に立つだけでなく、生徒同士で教えあうのもよしな自由に勉強できる教室で行われている。まだ開始時刻ではなかったが数名の勉強熱心な生徒が集まり参考書やノートを広げていた。
香取は数分前この教室に着き、先に席をとっていた鹿島のもとへ行った。そして先ほどの話をした。
「んー。石上は私と同じクラスで、コースも一緒だからよく話すんだよね」
「うん。だからそれで?」
間延びした声の鹿島に香取がぐいっと身を乗り出す。しかし鹿島はついに首を傾げた。
「…私、石上にさくっちょの話したことあったっけ?」
「・・・・・」
知りませんがな。香取は能天気が売りの友人に肩を落としてしまった。
鹿島遥は香取と違い普通科ではなく、この学校の特色の一つである農学科に所属している。農学科は二クラス、四コースに分かれ、鹿島と石上はクラスもコースも同じということらしい。この鹿島といい、先ほどの石上といい、人にもやもやを残す物言いは、もしかして農学科の特徴なのか?と香取は思った。いやそれは偏見になってしまうので訂正しよう。
「先生来ちゃった。何か思い出したら言うね!その前に数学分かんないから教えて!」
鹿島がそういうや、学習室のドアが開き今日の担当教師が入ってきた。数学、化学、物理。理数系を中心とした学習会に鹿島はげんなりしているが、それは香取も同じだった。
「おはよう。まず今日は――」
教卓に分厚い参考書、自身のノートを広げ先生が話し出す。スケジュールで行くと香取にとって苦手分野である。気持ちのもやもやを忘れるようにシャープペンをノックしノートに数式を書いていった。
――――
正午を告げる鐘が鳴り、午前中の勉強会も終わった。
「どうしようーさくっちょ午後も出る?英語、英語もピンチだけどさーもう帰りたい」
先生が出て行くのを見送って鹿島は「はぁ」とため息とともに机に突っ伏した。
春休み前に配られた学習会の日程表を見ると、午後からは英語が二時間入っている。もちろん自由参加だから帰ってもいい。
「遥が誘ってきたじゃん。一応お弁当はもってきたよ」
「だってー三時間しか勉強してないけど脳の活動量、丸一日分使い切った気がする…ご飯食べても補給できんかも」
ノートに羅列した数字がすでに何を意味していたのか忘れてしまうほど鹿島は疲れ切っていた。
「遥は普通の授業じゃやらないところだもんね。私は英語そこまでだから、午後から図書室でもう少し数学の復習する?」
「…さくっちょ、それは息絶えろということですか?」
ハハハと乾いた笑いを発する鹿島に、香取はにやりと笑った。
「ヒドイ人!嗚呼、外はこんなにも穏やかで、桜の花も満開だというのに。私たち受験生には休息というものがないとは」
鹿島は席を立ち窓際に寄ってわざとらしく大きくため息を吐いた。グラウンドに面したこの教室からは香取が朝通ってきた桜並木と遠くにある山々が見える。春霞に霞んだ山々にも所々桜色が塗られ、針葉樹の緑との絶妙なコントラストを描いていた。
「だったらこんな春休みど真ん中の学習会に行こうなんて思わなきゃよかったじゃん」
香取も席を立って窓際に寄る。グラウンドにはまだ野球部が練習しており、フルネームは知ることができた少年、同級生だった、もそこにいるのだろう。
「そうなんだよね。そうなんだよ。しかしだ。私には勉強が足りない。私には国公立に行かなきゃいけない使命が…!とりあえずご飯食べようか」
目まぐるしく立ち振る舞う鹿島のその言葉に香取は少しうらやましさを感じた。
鹿島は就職の多い学科において数少ない進学、それも国公立を希望している一人だった。農学科のカリキュラムは普通科に比べて普通科目はとても優しくできているため、普段の授業では到底太刀打ちできない。普通科でも塾に通うのに、鹿島の場合はもっともっと勉強しなければいけない。それだけ目標をもって勉強している。香取の場合は、果たして自分はどうか、というところである。
「ご飯を食べるということは午後もやってくってことでオーケー?」
「いえす!」
鹿島の元気な声に香取は笑った。
「(私も頑張らないと)」
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