一章

桜色と泥だらけのボール

 ガタン。と電車は揺れる。

 キィ。と電車は止まる。

 駅から近い県立花窟はなのいわや高等学校は、この電車沿線上を拠点に多方面から生徒を集めている高校である。ただ利便性がよいだけでなく、この高校の特徴である普通科以外にも様々なことが学べる総合的な学習体系が、がむしゃらに勉強がしたいわけではない生徒にとってとても魅力的な場所として映っている。とはいえ、目標をもってきている生徒もおり、高校の価値が卒業生の進路先であるならばそこそこよい成績を収めているのもまた事実。

 駅のホームに電車が到着し、ドアが開く。まだ春休みとあって降りる生徒は数えれる程度。すかすかの改札口を快適に通り過ぎ、香取朔かとりさくはローファーをこつこつ言わせながら学校へ向かう。香取もこの電車の沿線上に住んでいるが、通学時間は1時間。この電車の始発にあたる駅が最寄り駅であり、海が近い。反対に高校は山に近く、若干ではあるが気温も違う。少し肌寒い風が吹くものの、天気は晴れで暖かい日差しがまさに春を感じさせる。ほどなくして学校の裏門に続く車一台分ほどの細い道へ入った。なぜわざわざ裏門に向かうのか。


「うん。もう少し、でも、うーん後一週間…?」


 香取は歩みを止め道を見つめながら独り言を吐いた。

 この道は右手に畑、左手に学校のグラウンドがある。グラウンドと道を隔てるのは二歩ほどで登れるほどの小高い斜面とツツジの生垣。そして均等に植えられた桜並木だ。桜は今まさに八分咲き。満開ということになる。そしてすでに少し散った桜の花びらが地面を桜色に染め上げそうとしている。そう、すべてでなくてもそれ相当に散った時こそ香取が待ち望んでいる日なのだ。

 毎年恒例、桜色絨毯。今年もその風景を収めるべく香取は胸躍らせていた。まだ絨毯とまではいかないものの、とりあえず撮っておくかと香取はカバンからカメラを取り出す。

 何度かシャッターを押し満足した香取は時計を見て歩き出した。今日は先日友人である鹿島遥かしまはるかと自由学習会へ出席する約束をして、しまった。

 と、香取の目の前に普段では見慣れないものが転がってきた。泥だらけ、もとい、泥がしみ込んで茶色くなった野球ボール。そういえば、生垣の向こうからなんだか声がしていたなと今更香取は気づいた。きっと野球部が練習をしているのだろう。そしてうっかりミスしたのか生垣の切れ目、通路になっているとこから転がってきてしまったのだろう。あまり気にすることなく歩き出した香取は、そこでさらに登場してきた、今度は人物に足を止めた。

 白い野球の練習着をところどころ土で汚し、右手にグローブを付けた少年。スパイクの金属がアスファルトを噛んで少し嫌な音がした。どこかで見たことがあるけれど、どこの誰だか分からない。そんなあいまいな人物は、ボールを拾おうとして普段はあまり人が通らない道にいる人物、香取を見て止まった。


「珍し。人がおった。あれ?どこかで見たことあるけど…誰だっけ?」


 まさかの香取と同じ思いを抱く、だけでなく口に出した少年はボールを拾いながら「誰だっけなぁ」と左手でボールを軽く上に投げつつ、何度か呟いた。そんなに何度も「誰だっけ?」なんて呟かれたくないと思いつつ、一度くらいは顔を見たことがあるのならば同級生なのかもしれないと香取は思った。いやまあそんなに興味は湧かないけど。


「おーい!大和やまと!早く戻ってこい!」


 生垣の向こうでこの少年(名前は大和であるらしい)の戻りが遅いことに異変を感じた部員が叫んだ。その声に少年大和は利き手である左手から右手のグローブにボールを投げ入れると短く返事を返しグラウンドに戻っていく。


「…あ!香取…香取朔か!思い出した。んじゃまたなー」

「は?」


 垣根の切れ目から消える少し手前。大和は思い出したように一瞬足を止め香取を見ずにそう言って消えていった。


「え?なぜ、私の名前を知っている?」


 しかも、しっかりフルネームで。

 香取は頭をフル回転させて大和の顔から過去の記憶を呼び起こしたがなかなかヒットせず、そして、名前を言われたことに自分が知らないのに相手は知っているという得体のしれない胸のざわつきを感じ呆然とした。

 ハッとして歩き出したのは、生垣の向こうで金属バットでボールを打った爽快な金属音と、まだ少し冷たさが残る山の風に桜の花びらが上から降ってきたものの数秒後。先ほど大和が戻っていった生垣の切れ目を通過してグラウンドを覗けば同じような少年たちが試合形式で練習している。もう大和がどこにいてどれなのか皆目見当もつかない。

 気にするのはやめよう。

 香取は早くこの場所が桜色に染まることだけを考えた。でも、またあんな泥だらけのボールが紛れてきたら台無しになってしまう。ああ、また思い出した。大和アイツのフルネーム、とりあえず正体を知っておかねばこの気持ち悪さは消えない。

 とりあえず鹿島に聞こう。

 香取はグラウンドから目を背け、足を速めた。



 

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