Episode31
夜。路地裏喫茶の二階、リビング。ユズキは夕食後の食器洗いをしている。店長はその間カオリに話があるらしく、彼女を連れて一階へ降りて行ってしまった。何か重要な話があるのだとユズキは直感する。言葉には出していないが、店長の瞳には有無を言わせぬ真剣さが宿っていた。
重要な話――夏休みもいよいよ後半に差し掛かり、二人して喫茶店の新メニューにつて談義しようというわけではなさそうだった。そういう雰囲気ではなかった。ユズキには何となく、店長とカオリが自分のことについて話し合いをしているように思える。
二人はユズキの素性を知らない。ユズキは家出をしてきたことしか喋っていないし、それ以外の質問はうやむやにしてはぐらかしてきた。店長もカオリもそれ以上余計な詮索をしてくるそぶりは見せず、それはユズキにとってとても好都合なことだったが――おそらく二人はユズキの気持ちを汲んでくれたのだろう――僕はきっと、嘘をついたまま子供みたいに甘やかされている。
路地裏喫茶で働くようになってから、ユズキは店長とカオリに好感を持つようになっていた。二人はまるで本当の家族みたいにユズキに接してくれた。嬉しい気持ちの傍ら、いつも胸の奥から湧き上がる暗鬱とした後ろめたさがユズキを現実へ引き戻す――自分の下卑た過去を簡単にかき消すことはできない。
耳をかすめるのは両親の最後の断末魔と、近づいてくる二人組の足音。忘れたくても、それは不定期に押し寄せるノイズの波のようになってユズキの頭の中に流れてくる。店長とカオリに本当のことを話さなくてはならない。隠し事は、もう長く続かない。
食器を洗っていると、外でインターホンが鳴った。
音は裏口の方からだった。ノックも数回聞こえる。慌てているのか、相手は相当焦っているような印象だった。こんな時間に訪ねてくる人なんて誰だろう、とユズキは不審に思うが、店長の知人とかカオリの友達とか、思い当たる節がないわけでもない。一階へ降りて行って知らせることもできたが、今は気まづくなりそうなのでやめた。自分が出ることにする。
二階の裏口は外の細い縦階段と繋がっていて、路地裏喫茶と出入り口が被らないように作られている。短い廊下を通ると簡素な玄関にドアがあり、弱弱しいノックが立て続けに響いていた。ユズキは鍵を外してガチャリとドアノブを回す――目の前に立っていたのは、アリスだった。
予想に反した訪問者の登場にユズキは驚いた。
「え、アリス?」
動揺を隠しきれずに目をパチクリさせてしまう。しかし、すぐに彼女の様子がどこかおかしなこと気づき、ユズキは冷静さを取り戻した。
普段のアリスは気丈で可憐な少女のイメージがあるが、今の彼女はまるで正反対だった。泣いていて、迷子になって行き先を見失った子犬のように怯えている。震えた体は、華奢で気弱な女の子のそれだ。
「ごめんなさい。本当は、来ちゃいけないと思ったんだけど……」
アリスは涙ぐんだ声でつっかえながら言葉を紡いだ。
ユズキはまず彼女を玄関に入れてから、訊ねる。
「何があったの?」
「……泰造が殺されたの」
アリスが沈んだ声色で言った。
「泰造」
見覚えのある男の姿が頭に浮ぶ。
「確か、アリスの仕事のパートナー」
無言で頷かれる。
ユズキは、以前アリスからその仕事について簡単に教えてもらったことがある――悪い奴をやっつける仕事だと。泰造は、その悪い奴に殺された? 死体の生々しいイメージが脳裏をよぎる。
「よくあることなのよ。殺したり、殺されたり……」
アリスは途切れ途切れに言葉を探しているようだった。
「でも、あまりに突然だったから……私、逃げ込む場所がここしか思いつかなくて」
殺したり、殺されたり。
また、日常の一番近いところに死が迫りつつある感覚があった。
「アリスも狙われているの?」
ユズキは確認をとった。
「ええ」
アリスは落ち込んだ様子で返事をする。
「これはたぶん、誰かの復讐なの。報復の連鎖に、私は巻き込まれている。ここも時期に感づかれる。このままずっと逃げているわけにもいかないし、どこかで対決しなくちゃいけない……」
震えた声。それでも、勇気を振り絞っているのがわかる。
彼女の呟きには不明の点の方が多かったが、危機に直面しているのは一目で判断することができた。このままずっと逃げているわけにはいかない――それは今のユズキにも当てはまる。店長とカオリにはいずれ真実を話さなければならないし、怯え切ったアリスをこのまま一人で行かせていいはずはない。
なのでこう切り出す。
「悪い奴をやっつけに行くんだよね。僕も協力するよ」
ユズキの言葉に、アリスは不意を突かれたような顔になった。それから涙を拭って、深刻そうな面持ちで首を横に振る。
「ダメよ。武器がなくちゃ何もできないわ」
「それなら、アリスは武器を持っているの?」
「それは……」
アリスは僅かに言いよどみ、スカート上から自分の太もも辺りをしばらく手でまさぐった。そこに何らかのものを普段から携帯しているようだったが、今は何かが出てくる様子はない。
アリスはバツが悪そうに何も答えなかった。
「考えがあるんだ」
少し間をおいた後、ユズキは提案を出した。
「戦わずにその悪い奴をやっつける方法が、一つだけあるかもしれない」
不意に留置所にいた鈴木の言葉を思い出す――何事も、予期せぬ時に使い道ができるものさ。
……全く、その通りだと思う。
「ユズキ?」
アリスの眼差しに不安の色がさす。
「大丈夫」
ユズキは微笑み、アリスの手を取って言う。
「僕を信じて」
必要なものは玄関に飾ってあるお面――祭りの時にユズキが店長とカオリのお土産用に買ったもの――二つと、あとはおそらく、三人組が捕まった例の廃墟に行けばすべて揃っているはずだ。
数日前、ユズキと鈴木の留置場での会話。
鈴木がユズキに耳打ちする。
「面子仲間のよしみだ。隠してあるハッパのありかを教えてやる」
「ハッパ?」
「麻薬の原料になる植物のことだ。ほとんどは捕まった時に警察に持っていかれちまったが、まだ地下に掘った保存庫にいくつか余剰が残ってる。取り調べを散々受けたが、連中は誰も気づいてねえ。説明する。場所は――」
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