Episode26
「すいません社長。迷惑をかけてしまって」
昼間、病棟の一室で金沢がペコリと頭を下げた。脇腹を負傷しているので、今はベッドに横たわっている。
「気にすることないわよ」
女社長は言った。
金沢が入院して以降、定期的にこうしてお見舞いに来てやっている。一応、自分の会社の部下だったし、責任は感じていた。
「社員の面倒を見るのも私の務めだから」
そう言って、包丁で切り分けたりんごを取り皿の方へ移す。
「はい、口開けて」
「ありがとうございます」
金沢がモグモグとりんごを頬張る。
普段は強面な男が、何というか、こういう病室では少ししおらしく見えた。病衣を着ているせいかもしれない。
それにしても、と女社長は自分の中の疑問を口にする。
「一体、誰があなたを刺したのかしら」
「このりんご美味しいですね」
「ちょっと、答えになってないわよ」
金沢がふざけたので、女社長は彼の脇腹を軽く突いてやった。
「痛い」
「真面目に答えてよ」
金沢は、それが俺にもよくわからないんですよ、とかぶりを振った。
犯人の体格は女性だったが、フードを被っていたせいで顔までは見ることができなかったという。
もしかしたら、今巷で噂の切り裂き魔の犯行だったのかもしれない、というのが金沢の見解だ。
「真相は闇の中ってことね」
唸って、女社長は腕組みする。
犯人のやったことは、もちろん許せなかった。
しかしそれよりも、女社長は数日前に起きた自分の記憶の空白のことが何となく引っかかっている。
あの日、社長室では確かに何かがあった。
思い出したいのは、金沢と石井が部屋を出ていった後のこと。きっと、記憶が吹き飛んでしまうくらい、びっくりするような出来事が起きたのだ。
……今のところ、ちっともピンときていないが。
「少年探しはしばらく延期ね」
呟いて、立ち上がる。
冷静になって、今後の対応を考え直すにはいい機会かもしれない。
換気のために窓を開けた。
風に当たりながら、女社長は――自分でもよくわからないが――不思議なことに、片手に包丁を握っている。
路地裏で意識が戻ったとき、何となくその場の勢いで持ってきてしまっていた。
あれ以来ずっとバッグに入れて持ち歩いていて、自分の手に妙に馴染んで離れない。少なくとも、差し入れの食べ物をを切り分けるのには役立っている。
何でこれ、持ってきちゃったんだろう……。
呆けていると、一瞬、気味の悪い女の笑い声が聞こえたような気がしてゾッとした。
動揺して手が滑り、包丁を外へ落っことしてしまう。
今のは、一体?
包丁はすぐ真下の花壇へ落下した。ここは病棟の三階なので、回収するにはそれなりに距離がかかる。
「やっちゃいましたね」
「うるさい」
金沢が笑ったので、女社長は露骨に舌打ちした。
慌てて病室を出て包丁を取りに行く。
むかっ腹が立ったせいで、女の笑い声はすぐに忘れてしまった。
病院でこっそり健康診断を受けたあと、イチコは帰路についている。
体の調子は順調に回復へ向かっている。麻薬による禁断症状は厄介だが、カオリの家へ行けば幽霊の女――カオリの母――がサポートしてくれた。ピアノをやり始めるようになって、気持ちはだいぶ紛れている。
カオリともまた連絡を取るようになった。しかし、イチコには気になっていることがある。
カオリには、イチコが幻覚の幽霊と話しているところを目撃されていた。
あの時はまだ心身が弱っていたとはいえ、迂闊に不審な行動をとってしまったのはマズかったと思う。
大事な友達に嫌われたくない。打ち明けるには、イチコにはもう少し時間が必要だった。
何か、解決の方法を考えなければならない。
――病院の敷地を歩いていたら、丁度おあつらえ向きなものが花壇に落ちていた。
包丁だ。
見た目は、悪くなかった。綺麗な刃をしている。
泥を落とせばまだ使えるだろう、とイチコは判断した。
カオリは料理好きだ。包丁をプレゼントしたら、きっと大喜びするに違いない。
「ラッキー」
ひょいと摘むように拾い上げ、包丁をリュックサックの中へ仕舞った。百貨店に寄って、包装紙も買うことにする。
今からカオリの反応が楽しみだ。イチコは上機嫌に歩きだす。
ふと、隣の並木に目をやると、見知らぬ人物がじっとこちらを見つめていた。薄汚い身なりをした、髪の長い女だ。
女からは生気を感じられなかった。ひょっとしたら、また幽霊と出会ってしまったのかもしれない。
……知らないふり知らないふり。
イチコは足早にその場を立ち去った。
どうせ慢性的な幻覚持ちなのだ、誰が生きていて誰が死んでいるかなんて、もういちいち気にしない。
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