『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」22

 おれの腕のなかでしずかになったあなたの表情は隠されたまま見えなかった。このまま縊り殺してやりたいと考えるおれはたぶん、少しおかしくなっていた。あなたから離れるために、そう考えながらあなたに消えない傷をつけたいと願っている。それはおれの痕跡を残そうとするのに等しい。泣きたかった。何をしているのかワカラナイ。あなたがどんな顔で今、おれの腕のなかにおさまっているのか知りたかった。けれどおれはその覆いを剥ぎとらずにあなたへと隙間なく身体を寄せた。

 互いの熱が、その鼓動が快かった。

 おれの髪はまだ濡れている。だからおれがいま泣いていても、あなたはきっと気がつかない。荒れた息を欲情のせいにして、おれはあなたの頬に頬を寄せた。

 ほとんど身長の変わらないおれたちは身体を寄せると何もかもがぴたりと重なり合う。欲望の証をあなたのそれに押しつけると、あなたは身をよじって逃れようとした。ベルトを外す手をあなたは拒んだ。けれど生地越しに撫でて擦りあげてくれと言わんばかりにたちあがるそれを誤魔化すのは不可能だ。

「あなただって、もうこんなになってる……」

 あなたはかぶりをふった。そして、もうやめてくれと懇願した。

 やめる。何を。

 おれはあなたの言うことが分からなかった。おれたちの関係はもう終わりだと示したはずだ。

「やめてどうするの。他の男に突っ込ませるならおれにさせてよ。一昨日だっておれのを銜え込んで一晩中よがりどおしで。あなたもう女のひとじゃ満足できないくせに」

 あなたはタオルを振り払い、息を乱しておれを見た。憤るあなたを見るのは何年振りだろう。おれはそんなことを思いながら、あなたが手を振り上げるのを眺めた。頬で熱が弾けた。たいした痛みはない。あなたは本当に喧嘩が下手だ。わらったとたん口の端が沁みた。手の甲で拭うと赤い筋がついた。あなたはじぶんの暴力の結果に怯えた顔をした。血を怖がったようにも、おれを気遣うようにもみえた。

 そうやって無防備に立ち尽くすあなたをおれは力任せに押し倒した。そのまま乗りかかろうとすると、あなたは身を翻してこの腕を逃れた。おれは慌てなかった。おれを見つめ、肩で息をしながら立ちあがろうとするあなたへと笑いかけた。

「あなたの家はここなのに逃げてどこへ行くつもり? やめてくれじゃなく、あなたはおれに出ていけって言えばいいだけのはなしだ」

 あなたは何も言い返さなかった。ただおれを見ていた。あなたの内側に溢れかえる言葉をおれはもう聞かない。あなたにそれを言わせようと促すことも、または言わないですむように計らうことも、もう何もする気はなかった。

 おれはゆっくりと獣が這うようにして、あなたへと近づいた。あなたは尻をついたままいざったけれどおれの腕のほうが早かった。あなたの頭を両手で抱えよせ無我夢中でくちづける。唇を割る。あなたが血の味に眉を寄せたのを見る。おれは荒れた息のまま囁いた。

「目をとじて。あなたが欲しい……」 

 あなたはもう、暴れなかった。


 研究室へ入ってすぐ、教授が銀縁眼鏡のむこうの瞳を眇めた。そして、これみよがしなため息をついて項垂れた。

「あなた、いったい何やってるんですか」

「進退を話したつもりですが」

「あの見るからに礼儀正しくて温厚なひとに手をあげさせる非道を糾弾してるんですよ」

 二人だけなのをいいことに、おれはコーヒーを片手に悪びれず正直に告げた。

「おれがこういう人間だってことは教授のほうがよくご存じでしょう」

「知りませんよ。私はあなたに格別の興味はない。彼なら、はなしは別ですが」

 おれは教授の分のカップをさしだした。教授はそれに手を伸ばさなかった。かわりにおれを見あげて首を傾けながら言った。

「あなたがいるから遠慮した。そういう人間は少なくない」

 教授は書類の束を引き出した。おれはそれに目を落とす。取材や講演の依頼その他、外国語もいくつか混じっていた。

「さしあたってこれらすべてを彼に伝えるつもりはありませんが、あなたがここから完全に出るというようなら、私の裁量で取り決めます」

「……あのひとにはまだ早い」

「あなたの意見など聞きませんよ」

「教授」

「とめたのに出ていくのはそちらです」

「週一で帰ってきますよ。おれに一講義もたせたでしょう」

「私はゼミを預けたかったのですけどね。まあいいです。彼女から礼状が届いてます。読みますか」

 首をふった。テーブルの上に置かれた封筒の文字は見た。流麗なおんなもじ。

「しかしあなたも因業なひとですね」

「教授に言われたくはないです」

「かわいそうだと同情したつもりですが、そう受け取られなくて残念です」

 教授はそう言って手紙をしまった。そして、

「私なら、死んでも離れない」

「ずいぶん思い詰めたことを言いますね」

 おれはコーヒーを啜った。傷に沁みた。思わず眉を顰めると、

「人間ってのはそのくらいのこと平気でおもって生きてるものだと考えてますが、違いますか?」

 逆に訊ね返されたもののおれにそんなたいそうなこたえはない。彼のために離れるのだとか一緒にいることだけがすべてではないと返すのはいかにも白々しかった。

 コーヒーがやけに苦く、胃の底で熱い。朝食も食べずにあのひとを責めたてていたのだと思い出す。

 あのひとは、今ごろ吐いているかもしれない。

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