『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」21

あなたの狼狽するさまをおれはきっと愉しんだ。気位の高いあなたがあの場でおれを罵ることはないとわかっていた。いや、違う。たぶんそんなこと自体、思いつかなかったにちがいない。

 あなたはおれを信じきっていて、かつておれがあなたの「裏切り」に我を忘れて逆上したときよりもずっと迂闊で、それなのにおれよりもはるかに明敏に何がその場で交わされているのか悟ったようだった。

 今夜あなたを呼び出した依頼人は少々気難しい女優のはずだ。今ではすっかり美術監督としての地位を築いたあなたの初恋のひとの紹介で、もちろん上得意さまだ。

 たしかに手許にリストはない。けれど、たいていの依頼人には呼び出しの周期というのがある。あなたが何も意識せずそれを習得しているのと同様に、もうそれはこの頭に入っていた。だからあのとき促した。そしてあなたも電話に出た。

 出ると、互いにわかっていた。

 わらった。どうしようもなく可笑しかった。

 おれは服を脱いでじぶんのベッドに潜りこみ、肩にあったあなたの頭の重みを思い出す。安らかな寝息をもらした唇が、何を口にしたらいいのかもわからずわなないていた様を思い浮かべる。あのとき、あなたへ贈った赤いマフラーが黒髪とともに風に巻き上げられた。あなたはいつになく頼りなさげで、おれはその場に立っているのに苦労した。

 うっかりしていると、あなたから離れられなくなる。

 あなたに必要なのは、おれではないのに。


 おれは布団にくるまって丸くなった。この寒い時期、ふと目をさますとあなたが胎児のように丸く縮こまっているときがある。いつのころからか、そっと潜りこんで背中から抱きしめると、すとんと深く子供のように眠るようになった。

 付き合いはじめのころ、同じベッドで眠るとおれが寝返りをうつたびにあなたは目をさましていたようだ。万事がその調子だったので、おれはことあるごとにあなたの暮らしに「闖入」した事実におののいていた。むろん、それに気づかれないようにこころした。あなたはとても鷹揚で、その反面どうしようもなく敏感で、おれはおれでそれに許されて甘えてきた。そのいっぽうときにあなたと、そして何よりも自分に苛立ちながらも、あなたの傍らにいる幸福を手放すことだけはしまいと念じていた。

だからあなたを縛り、じぶんをも縛った。

 互いに離れられないように。


 女しか知らないあなたを抱いたのもおれのわがままだ。

 あなたは嫌がったのに。

 おれが、無理強いした。


 受け容れられてよろこんだおれは、ただひたすらにあなたと繋がりたいのだと言い訳をした。そうしてあなたが後ろだけで達したとき、またその欲望を隠さなくなったときにも、おれは恥ずかしいほどによろこんだ。

 そのよろこびはうそではない。だが、そこに裏打ちされたものが何であるか、おれは当時から自覚していた。

 夢でさえ、もう、あの日々をくりかえさないと誓ったのに、おれはそうおもいながらあなたを抱いた。


 夢を見た。そう、もう十数年ぶりであのひとの夢を。耳を聾す波音と、あのひとの長い髪が海風に揺れるさまを……――


 そして今、あなたは始発にのって帰宅して玄関で立ち尽くしている。そこにある空虚に、おれがここを出ていく現実を目の前にして、身を凝らせているところだった。

 シャワーを浴びたばかりのおれは頭にかけたタオル越しにそれを盗み見た。あなたはおれの視線にわずかに身じろぎした。緊張のためか怯えたような顔をしているあなたに近づいた。あなたは床に雫の落ちるのをみた。おれでなく。

 おれでなく。


 おかえり、と微笑んでみせた。あなたはただいまとこたえるのを躊躇い、玄関口においたままの荷物へと視線を投げて、その礼を述べようとした。おれはそれを許さず、あなたの手をひいてそのポケットから端末を奪った。そしてそれを開けながらたずねた。

「彼女と寝なかったの?」

 あなたは不思議そうにおれをみた。何を言われているのかわかっていなかった。

「あのひとあなたにご執心だよね。でも相手が女性なら押し倒されることはないか」

 ようやく侮辱されているのだと気がついたあなたはおれの手から端末を取りかえした。例のメールが保存されているか確認する時間はなかった。いや、あなたはおれがそれを確かめようとしたのに気がついた。何か言おうとしたあなたをおれは壁に押しつけてくちづけた。あなたは目を見開いて、おれを押しやった。けれどそれはたんなる抵抗でしかない。あなたはおれが何故こんなことをするのか知りたがり、けれどそれを吐き出していいものかわからずただ暴れた。つまり、おれをほんとうに拒絶してはいなかった。あなたはおれたちふたりの距離がたんに離れるだけで、昨日のあれが別れ話ではないから今こうして肌を合わせようとしているのかもしれないと思いこもうとしていた。それくらい、おれがあなたを傷つけることはないと信じたがっていた。だからおれを殴ることも出来ずに、おれの口にする辱めに耐えて、たんにおれを煽るだけの抵抗をしてみせた。

 いや、あなたはそんなふうにおれを煽ったわけではない。それはわかっていた。だからこそ、おれは言わなければならない。

「ほんとはあなたも欲しいくせに」

 あなたの抵抗が一瞬やんだ。おれはあなたの左耳にかかる髪をかきあげる。びくりと震えたあなたの平らな腹に、堪えきれないほどに熱いものを擦りつけながらゆっくりと囁いた。

「おれがこの街にいるのは十日もない。そのあいだ楽しませてよ」

 あなたはおれに目を合わせようとした。けれどおれはあなたの頭をタオルで覆った。そして、耳の後ろに唇を這わせて続けた。

「おれ以外の男と寝たよね」

 あなたは背筋を震わせた。それからおれの胸を押し返そうとしていた腕をおろして大人しくなった。

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