『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」16

 口を塞いでいたタオルを引き抜かれたときには俺は意識を失っていたらしい。「依頼人」は口にペットボトルを押しつけた。それで目が覚めた。血のついた涎塗れのタオルが腹のうえに落ちたのをぼんやりと眺めていると、鼻をつままれてボトルを飲み込まされた。水だった。

 残り半分は俺の左手に振りかけられた。沁みた。少なくとも普通の神経は生きていると知れた。血と水が手首から腕を流れ背と胸を伝いおちた。「依頼人」はベッドからおりて棚からバスタオルを掴んだ。そして、それでまず俺の顔を拭いた。そっと押しつけるようにしてそのまま首を、腋を、胸のうえをぬぐった。さきほど打ち据えた場所は避けて汚れたタオルをどかし臍まで丁寧に清めた。それから、萎えた俺のものに指をからめた。

「あなた女みたいな肌してる……ここの毛も薄いし」

 タオルを床に投げた「依頼人」は俺の頬に手をあてた。嫌な予感がした。

「今までのが僕のしたかったこと。今からは、彼があなたにしたかったことを代わりにしてあげる」

 そう言って、俺の下腹に顔を伏せた。


 僕ははじめ男となんて真っ平だと思ってたけど、彼がここにいたとき、そうさせてくれって。ああ、夢使いの仕事よりこっちのほうが稼げるんだなって。


〈外れ〉ならまさにそうだろう。俺は夢使いとしての矜持ゆえに、色を売らないできた。それを怠惰や怯懦とみる同業者がいるのは知っている。だからこの行為は、死んだ〈外れ〉にとって復讐にあたるのだとは理解はした。

 俺の反応が鈍いせいか、「依頼人」はベッドからおりた。そして、ベッドの下から〈階梯〉をひっぱりだした。袋から取り出して、まず金の縦木をかざした。二本は無理かなと首をかしげられてもなお、何をされるのかわからなかった。〈階梯〉も〈夢秤〉も夢使い以外の手では扱えないものだ。それでも、それらは死を救う妙薬になるだとか、奇跡的な幸運をもたらすと信じられ、夢使いが命を奪われてまで売買されていた。


 ぼうっとした顔をして。今からあなたの真ん中に、あなたの命と同じほど大事なものを埋めてあげようと思っているのに。だいじょうぶ、彼もこれでされるのが好きだったから。 


 タオルを無理やり口に押し込まれた。あなた、舌を噛んで死にそうだから、と。


 俺はことあるごとに魘使いは碌な死に方はしないと口にしてきた。そう教えられてもきたはずだ。その現実をいま生きているのだと、じぶんの覚悟のなさを嘲笑った。

 死にたくなかった。

 そして、俺はひとりの「夢使い」の死を横に捨て置きながら、自身のそれは、どうやっても受け入れがたいのだと知った。


 暴力と凌辱に引き裂かれて後にやってきたのは、海外研修に出ている彼のはなしだった。

「依頼人」は笑顔で端末を俺に見せた。そこに、寄り添って並ぶ彼と若い女性の姿がうつっていた。

 これべつに画像いじったりしてないですから。僕そこまで面倒くさいことしたくないですし。たくさんあるでしょ。彼女よくうちの大学に来てるんですよ。食事もほとんどあなたの彼氏と一緒です。まあ別にそれだけでどうこうってことはないと思いますけど、研修の話しも何もかも彼女からの提案で、しかもあなたの彼、このひとの家から夢使いの史料の何もかも預かったらしいですよ。物凄い執念ですよね。

 そこで、俺がもっとも聞きたくなかった夢使いの名を口にした。


 俺は、その男の影かなにかだろうか。

 俺が生きていても仕方がないというために、その名がこれほど繰り返されるのだろうか。

 俺が死んだら、

 もし俺が死んだら、

 彼は、どうなるのだろう。

 そして、この年若い「依頼人」、俺にたったひとりの友達を見殺しにされたと嘆くこの若者は、いったいどうなるのだろう……。


 その夜、「依頼人」は俺に友達の夢を見せてくれとねだった。

 俺は右手だけ自由にされた。


 香音を鳴らした。


 翌朝、「依頼人」は俺の左手に包帯を巻いた。腫れあがった足には触れなかった。その他の場所にも。手洗いに行きたいというと左手だけ鎖を長くした。俺は床を這って歩いた。血と精液、汗と小水塗れのシーツが替えられた。それだけでなくペットボトルの蓋をあけて渡された。「依頼人」も俺もなにも話さなかった。そして何も食べなかった。ただ、何かを洗い流すとでもいうように外国の水ばかり飲んだ。「依頼人」の咳だけが、暗く白い部屋に反響した。


 俺は監禁されて三日目に救出された。

 救い主は俺の従姉、つまり弟子の母親だった。じっさいには彼女のボディガードが動いた。父親の跡を継いで政治家になっていた。


 母が呼んだのよ、と彼女は俺を抱きしめて言った。

 夢で、母がわたしを呼ぶの。かれをたすけてと口にして痛いくらいに手を引くの。怖かった。間に合って、本当によかった……。


 そのときの俺は爪が潰されて使い物にならないと思っていた。それでなお、死んだほうがましだと口にしなかったのは、「依頼人」の友人が自死した理由の一端は自分にあるかもしれないと考えたからだ。

 〈外れ〉の困窮は容易に想像がついた。「依頼人」と年齢はさして変わらないけれど学生でなく非正規労働者だった。いま夢使いは夢見式の仕事でどうにか息をしていると言っていい。この十年で都市部の儀式復興はゆるやかにすすんだ。研究センターの企画展示、彼の仕事は着実に成果をあげていた。つまり組合に属していればひとまず面目はたったのだ。しかし逆に〈外れ〉は仕事を失った。それだけでなく差別化がました。正式な夢使いとそうでないものという区分けが明確になったのだ。

 だから俺が依頼を受ければ自殺を防げたかもしれないなどとは思わない。

 そうではなくて、俺は死を選ぶほど追いつめられている人間の声を耳にしたはずなのだ。香音に救いを求めるひとの声を。

 それを、聴き取れなかった。

 否、その手前、つまりそうしたものを受け取ろうとしなかった事実に打ちのめされた。

 「依頼人」の言うとおり、俺には夢使いとしてのこころがない。何のために香音を鳴らすのか忘れていた。

 俺は、「夢使い」としての命を絶たれてもおかしくはなかったのだ。

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