『夢の花綵』「視界樹の枝先を揺らす」7

 そしてふと気づいた。視界の静寂の兆しを。風はあった。葉のそよぎも。だがそれらが撓むようにして凝り静止した。背後にあるはずの幾つもの靴音、話し声、そうしたものどもをたぐりよせようと抵抗したが無駄だった。


 きみはわたしを恐れなかった。わたしがひとを殺すことをなんとも思っていないのに。


 頤をあげてまっすぐにこちらをみていた。

 己は知っていた。そして恐れた。正直にそう口にしたとたん、あの男はわらった。


 まあいい。べつにそんなはなしをしたいわけじゃない。少なくとも上辺だけは平和とやらを保っているこの国で、わたしのような夢使いが歓迎されるはずもない。一族はもう、おのれの本分を忘れたがっている。祖父の死からその傾向は加速し、国の中枢にかかわることも忌避された。我が一族は歴史の表舞台から締め出されることをよしとした。それに異を唱えるつもりもない。わたし自身、栄誉栄達など求める質ではないからね。ただびとの賞賛など欲しくもない。だが……


 あの男は右手をそっとつばにかける。額がかくれほそい鼻梁のしたにある唇の赤みが目にうつる。静寂が肌を刺す。冷や汗さえ凍りつかせるほどの緊張に包まれながら理解した。秘儀のさなかに連れてこられたのだと。

 足下に視界樹の根をかんじた。無限にもおもえる拡がりを眼裏にえがいたと同時に上下さかしまに視界が裏返る。視界樹の根と枝葉が綴じられていく。ついでその中心の幹に己たちが接合された。おりてくる香音を拾うのではない。《誓》におりた魘をすくいあげ標的へ遣わすのだ。そう気づいてとっさのことに身構えた。爪が掌の内側に織り込まれたとたん、箭のような「熱」が噴きあがる。息ができない。うろたえてただ喘ぐ己の頭のうえを、裏返った視界の表面を、夥しい魘が辷りおりていく。そのたびに目が焼かれ鼻の奥から頭頂部にかけて強烈な痛みが襲う。髪と肌が不穏にざわめくが抑えることもできず耳は轟音にひたすら耐えた。己は魘の重さについては知っていた。だがその狂瀾と熱を感じたことはない。つまりその程度のものにしか触れてこなかった。恐ろしかった。この状態でいつまで自身がもつものなのか。このまま続けば夢使いとしての力が焼き切れるかもしれない。否、己だけでなく……

 己だけでなく。

 そう悟った瞬間、それが已んだ。柱のように打ちあがる濁流がしんと鎮まり平らかになる。己はそれに逆らわず意識を添わせた。からだの輪郭からすべり落ちるのが魘の残滓であると気がついた。溜めてはいけない。足下へと流れ散ったそれが深く、遠くへ沈みいくのを見届けるようにして流した。

 ようやく大きく息をついてのち眉間に残るのは、いつか爺に聞いたことのある焦土のにおいそのままだった。


 それからどのくらい時間がたったものか。己はその場にくずおれていた。視界は元通りひらかれ、背後には学生たちの高らかな笑い声さえ聞こえた。そして目の前にはしゃがみこんだあの男がいた。さすがにその肩が揺れるほど息を乱していたが晴れやかな笑顔だった。

「きみに膝をつかせることが出来てうれしいよ」

「……半人前の己を潰すつもりですか。下手すれば廃人になる」

 頤をあげ精一杯の抵抗をみせて口にしたつもりだがあの男は満面の笑顔でこたえた。

「ならなかったじゃないか」

「あなたが止めたから」

「ちがうよ」

 笑顔が消えていた。

「寸前まできみを道連れにしようとおもっていた。きみがわたしの才を惜しまなければ続けた」

 己の顔を見据えたままの男へと言い返す。

「あなたにそんなに疎まれていたとは知りませんでした」

「それも違う。益体もないわたしの命と同じ程度には大事におもっているよ」

 その表情をうかがおうとすると視界が昏くなった。倒れたままの己の頭に帽子がかぶせられたと気づいたときにあの男は膝を起こした。己はといえばまだ立ち上がれなかった。いわれた言葉を反芻しようとしてできずに首をふった。

「わたしは結婚しない。誰かひとりと特定の関係を持つことをしか許さないこの国の法律が変わらないかぎりはね。弟子もとらない。今となってはとることも許されない。たいして興味もないと思ってきたが、きみにあって考えをあらためた。きみほどの逸材でなければ教えて面白くないのだと」

 己はそのときよほど複雑なかおをみせたらしい。あの男は容赦なく吹き出した。帽子をはらい、笑うことないじゃないですかとさすがに文句をつけると、いいかげんじぶんが優秀だと認めるといいと嘲られた。きみは初めてであれだけの魘を浴びてなお健在で、その方向を見定めるだけの余裕があった。しかも今その身に魘をまとっていない。たいしたものだ。

 ただ横で見ていただけの無能をもちあげられて腹が立ったが己は己で別の言葉をはきだした。

 出来が悪い弟子を教えるからこそ面白いのではないですかと。

 そのときばかりは真面目な顔をした。


 きみは問う相手を間違えている。そのこたえは「爺」とやらに訊くといい。


 帽子を片手に膝をついていた己がそれになんと返したかおぼえていない。そのころにはさすがに老いて身長も体重も追い越した己を殴ることもなくなっていた。

 いっぽうあの男のさしだした手を握らなかったことは鮮明におぼえている。そういう己をあの男は目をほそめて眺めた。

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