『夢の花綵』「視界樹の枝先を揺らす」8

 ようやく立ちあがった己へときみは帽子がよく似合うねと微笑んだ。やけに悠長なものいいだった。わけがわからなかった。しかたなくはなしの流れを遡ってみることにした。

 大戦前後の夢使いへの苛烈な差別、戦中の強制労働といったあれこれを爺はすすんで話すことはなかった。むろん常識の範囲では教えられた。だが当事者として語ったわけではない。容易に口に出せることでもなかっただろう。田舎には来ないと言ったが大学をはなれる前にどうにかして爺と引き合わせるべきではないかと考えていた己の顔へなんでもないふうに告げた。

「わたしは祖父にかわって贖罪をするつもりもない。今はもう祖父を追い詰めた事件を知りたいとも思わない。強がりでもおそれでも、まして諦めでもなくてね、きみとあって、どうでもいいと思うようになった」

 そう言われた当人は何を口にすればいいのかますますわからなくなった。

 木漏れ日がその相貌を翳と日向に染め分けている。明滅する信号の背後にあるはずの表情を読み取ろうとするが無駄な努力だった。何故ならあの男ははじめからいつだって涼しい貌しかしなかった。

 すると己の視線をはねかえすようにしてふと微笑んだ。

「きみとは二度と会わない。手紙のやりとりもしない。わたしのことは忘れてくれ」

 型通りの言葉におもえた。監視がついていると匂わされて踏み込むほど怖いもの知らずでもない。

「きみがわたしの才を惜しむならわたしは北の地でみなの望む夢使いを演じよう。やさしく小さな夢をあがない、あがなわれ、孤独を慰め、疲れを癒し、明日への希望を抱かせる。わたしにはそれが出来る。それこそが夢使いの本義だときみが思うなら、残りの人生をそうやって生きるのも悪くない。気がかりはただ、一族の長い歴史によって培われたこの伎が潰えることだけだった。さすがにそれだけは我慢ならなかった。きみが継いでくれるものとおもえば安んじてのらくら過ごせるよ」

 言葉どおり穏やかな笑顔をみせられて黙ってはいられなかった。

「己は、魘と相性が悪い」

「しっている。きみは晏をあがないあがなわれる夢使いとして生きるだろう。きみの先祖がそうであったように。魘とは距離をおき、もっとも馨しい晏をおろして夢使い仲間にその名を轟かせ、賞賛を浴びながら嫉妬され、その力量に相応しい卓越した弟子をとる」

 預言じみて囁かれる言葉をどういうきもちで聞いたのか思い出せない。思い出せないのだ。本当に。


 知ってのとおり。

 己の弟子は恐らく当代一の魘の使い手だ。夢使いの技術一般においてはまだまだ上がいるが、魘の使い手としての地位は死ぬまで揺るがないだろう。それだけでなくこのまま精進していけば文字通り不世出の夢使いと呼ばれるのは間違いない。


 己はそう言ってやったことはない。そんなもの本人が気づかなければ意味もない。


 あの伎を。

 弟子に伝えなかった。

 隠匿したわけではない。己の力量不足でもない。

 遠からずそこに到達すると悟ったからだ。


 血は強い。そして濃い。

 夢使いであれば余計、その「現実」に暗澹とする。流浪の民として記録され使役され続けた歴史をもつ我ら夢使いが頼るもの、頼れるものは己の技量と血縁しかない。そう思い詰める者がいてもおかしくはない。


 あの男は一族とその主に遺棄された。あまりに突出した才ゆえに。


 己は。


 先祖がながく仕え、

 ときに離反し、

 首を撥ねられ、

 また匿われた家の娘を娶った。


 我ながら因業だ。


 だがそれで後悔するはずもない。己は自身がもっとも欲するものを得た。これ以上のことはない。

 そう言ってやるのが遅かった。それだけは悔やんでいる。

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