第7話

さて、これからどうしようか。そう考えながら歩いていると、携帯が振動した。出てみると、やはりあの女で……。

「あれ、昔の奥さんとかですか?」

「いちいち神経に触る言い方だな」

「あら、失礼~」

 悪びれた様子もなく女が言う。

「で、何の用だ?」

「雇い主にそんな口きいてもいいんですか?」

「……」

 相手にするのが面倒になり、だんまりを決め込む。それを察したのか、つまらなそうに話を続けた。

「約束は六時だったんですがね、予定より早く準備が整ったんで今からでもできるんですけど。どうします?」

「……」

「その顔でやり残したことがあるなら待ちますけど」

「やり残したこと……」

 そう呟いて、坂下は目を伏せる。不倫相手の所に行って、嫌がらせでもしようか。それとも、親に最後の連絡でもしようか。テントの整理でもしようか。

 あれこれ考えたが、全部無駄な気がしてきた。嫌がらせして捕まるのも嫌だし、親には勘当されたし……。

「もしもし? 聞いてます?」

 確認する声は気怠そうで、早く答えろと言外に言ってくる。坂下は昼ご飯を食べたら行く旨を伝えた。すると新宿駅からの道筋を簡単に言われる。それが終わると女は「さよなら」と言って切れた。


 坂下は新宿駅に着くと、南口に出る。そこから蕎麦屋に行く。少し会計が足りなかったので、財布の中にあるクレジットカードを使った。まぁ、どうせ顔を変えるから使っても大丈夫だろう。

 蕎麦屋を出ると、一度駅に戻って教えられた通りに歩く。その途中に、宝石店の前を通る。大きな窓ガラスから店内が見えて、綺麗な宝石が輝いているのが見えた。もし一年後、自分が帰ってきたら雅美に指輪を買おう。そして、もう一度プロポーズをしよう。坂下の頭には、雅美が豪華な指輪を貰って笑い泣きするのが見えるようだった。


 ゆっくりしすぎたせいか、事務所に着いたのは二時過ぎだった。ドアをノックすると、黒いスーツを着た男が出る。男は坂下を一瞥すると、すべてわかっているという顔で中へ通した。

室内はモノクロ調の家具で統一されている。部屋の中央にある、向かい合わせのソファに女がゆったりと座っていた。女は欠伸を一つすると、ゆっくりと坂下の方に顔を向ける。すると、昨日話しかけてきた女であることに気が付いた。

「どうも、ミスター。ねぇ、あれ用意して」

 坂下には手でソファに座るように促し、後ろにいる男に指示を出す。坂下はおずおずと女の向かいに腰を掛けた。

「心残りは、もう無いんですね?」

 女が口の端を吊り上げて聞いてくる。坂下はゆっくりと、首を縦に振った。

「そうですか。なら、一安心です。そうそう、頂き物のワインがあるんですが、どうです?」

「いや、俺は……」

 坂下の声を無視して、男がボトルとワイングラスを二つ用意する。それをテーブルに置くと、ワインを注いだ。

「どうぞ遠慮せず。これ、高いんですから。こんな時でもないと飲めませんよ」

 そう言って、女は目の前のグラスに手を伸ばす。そして軽く掲げて、乾杯を促すようなジェスチャーをした。坂下も仕方なく、グラスを持ち上げる。

「乾杯」

 女はそう言って、軽くグラスを振れ合わせる。チンという音がして、女はグラスを口元へ運んだ。坂下もそれに倣って、ワインを飲む。半分ほどを一気に飲み干し、テーブルに置いた。女を見ると、にこやかに笑っている。先ほどまでの軽口が嘘のように、黙って笑っていた。


 数分後。坂下は何だか強烈な眠気に襲われてコックリコックリ舟をこぐ。男が軽く押すと、坂下はソファに倒れこんだ。それを確認すると、女は急いで口に含んだワインを吐き出す。

「うえっ……」

 差し出された水を口に含むと、ワイングラスに戻す。それを呆れた様子で男が見ていた。

「中井刑事には連絡した?」

「はい。数分で来るそうです」

「ったく、あのバカ息子のせいで……」

「言葉が過ぎますよ」

 ハンカチを差し出して男が言う。

「どうせあんた以外ここにいないでしょ?

それにしても、バカ息子の頭の悪さったら。逆ギレで相手殺すんじゃないよ……」

「今までの人たちはお金で解決できましたけど、死んでしまってはそれも無理ですしね」

「親父も甘いのよ……。息子のわがまま何でも聞いてるからあんなことになるんでしょ」

 忌々しそうに額を押さえる。外で車がとまる音がした。

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