第4話

 ごみを片づけると、切符を買うために駅に向かう。見ると新宿までは中央特快で一本だった。坂下は改札を抜けると、ホームに降りる。電車が言った直後だったらしく、人はほとんどいなかった。坂下は備え付けのベンチに腰を下ろした。しばらくすると、ホームに人が集まってくる。それと同時に坂下は複数の視線が自分に向けられているような気がしてきた。

女の手下だろうか。しかし、それにしては多すぎる。部屋を出る時は誰にも会っていない。見られているはずはない。いや、もしかしたら部屋の中から見られたとしたら? そう考えだすと、もう止まらなかった。

 疑心暗鬼が薄らいだのは、新宿駅のホームに着いてからだった。すごい人混みに流されて、取りあえず改札を出る。案内板を見てどうにか寄席に行く。少し道に迷ったせいか、着いたときにはもう始まっていて、枕が終わって本題に入ろうとしていた。坂下は座敷席の一番後ろに座る。

 

「芝浜」という落語は、酒におぼれた漁師が大金の入った財布を拾うが、翌日には無くなっている。妻に聞いても、夢でも見たんだろうと言われる。それから漁師は、こんな夢を見るのは酒のせいだときっぱりとお酒をやめて、真面目に働くようになった。それから三年後、妻から財布を拾ったのは夢じゃない事を知らされる。


『あたし、怖かったんだよ。あんたがこれを盗んできたんじゃないかって。だから酒の見せた夢ってことにして、財布は御上にとどけたんだよ。一年くらいして誰も名乗り出なかったから財布は帰って来たんだけどね、今アンタに返したらせっかく頑張って来たのに働かなくなるだろ? だからずっと黙ってたんだよ』


 演じているのは初老の男であるのに、妻のいじらしさが伝わってくる。すると、五年前に別れた妻の顔が脳裏に浮かんできた。

 五年前、坂下は妻が妊娠しているのにもかかわらず不倫をしていた。相手は同じ職場の部下だった。妻はいつも気怠そうで、自分に構ってもらえない寂しさを不倫で埋めていたのだ。しかし三ヶ月で妻は浮気を疑うようになり、気づいたときには証拠を固めて離婚してほしいと言ってきた。養育費の代わりにかなりの額の慰謝料を請求され、散々ごねたが結局離婚することになった。不倫相手にも見捨てられ、会社にも居づらくなってやめた。だが再就職も困難で、ここから坂下のホームレス人生が始まったのだ。

 妻はどうしているだろうか。あの時お腹にいた子供は? そう考えると、無性に会いたくなってきた。勿論会いに行ける立場でないのはわかっている。だが、顔を見るだけなら。


 ステージの男はお猪口をかたどった手を口元に行きかけて止めた。それを床に置く芝居をして、苦笑いをして言う。

『いや、止めとくよ。夢になるといけねぇ』

 落語家そこで頭を下げた。

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