ビタースイート・ベター

天乃 彗

ビタースイート・ベター

 終業後の給湯室は無法地帯だ。狭い室内に、同じような巻き髪の女が、にぃ、さん……三人。


「聞いた? 総務のミナちゃんも小林課長にチョコ渡そうとしたらしいよ。受け取ってもらえなかったらしいけど」

「うそ~ミナちゃんも? 大人しそうな顔してやるねぇ」


 女って本当に噂好きよね。まぁ、かく言う私も女の端くれだけれど。私は人の噂もこういう人種もあまり好きではないから、この人たちに混じりたいとは思わない。


「イケメンだもんねぇ小林課長。今日、小林課長何人からチョコ差し出されたのかな」

「本人も覚えてないでしょ、断った数なんて」

「義理ですーって顔して渡しても断るもんね、あの人」

「そーそー。“俺甘いの苦手だから”とか言ってさぁ! イケメンだけどあれは腹立つわぁ」

「ね! あそこまで徹底されると本当かどうかも疑わしいよねぇ?」


 ああイライラする。いつまでいるつもりなのだろうか。彼女たちの話には終わりが見えないから、私も次の行動に移せないではないか。私はさっさと用を済ませて仕事に戻りたいのだ。早く出ていってほしい。


「義理さえ断る方も断る方だけどさぁ。本命渡す方も渡す方じゃない?」

「言えてる。だって小林課長って──」


「「既婚者、だしね」」


 「ちょ、ハモった」なんて言いながらクスクスと笑う声。彼女たちは一向に出てこない。あーもう長いわ、いい加減にしろ。話題が次へと移ってしまう前に、痺れを切らして給湯室の入り口の壁を思い切り叩いた。


「──おしゃべりしてるくらいならさっさと帰ってもらえます? 邪魔なんですけど」

「……はぁい。行こ」


 聞き分けのいいように見えて、一様に唇を尖らせた彼女たちは、すたこらと給湯室を後にする。


「……聞いた今の? 感じ悪ぅ」

「あれじゃモテないわよね~男連中が言ってたの分かる」

「やぁだ聞こえちゃうわよ」


 ええまあ聞こえてますけどね。いいですけどね別に。

 文句を言う気にもなれず、私は彼女たちの背中を睨みつけるだけにして、コーヒーマシンのボタンを押す。用意した2つの紙コップに、湯気の立つコーヒーがゆっくりと注がれた。


 * * *


 さっき彼女たちが噂をしていた小林課長は、私の直属の上司である。若干35歳にして課長ということもあり、仕事の鬼だがイケメン、と社内でも有名だ。あんまりかっこいいものだから、彼の左手の薬指に光る指輪があっても、当たって砕ける者が後を絶たないくらい。仕事中も飲み会の席でも、プライベートはあまり明かさないため、“あの課長を射止める奥さんは一体どんな人なのか”と、定期的に話題に上る。むしろプライベートが謎すぎるあまり、“あの指輪は女よけのダミーなのではないか”という説もある。当たって砕けるのは主に後者の説を信じてる人たちだ。今日はバレンタインだからということもあって、そういう人たちが増えているのだろう。


 2つの紙コップを両手に持って席に戻る。自分の席ではなく、眉根を寄せてパソコンと向き合っている小林課長の元へ。


「課長、コーヒー淹れましたけど、飲みますか」

「おぉ、ありがとな」


 鬼の形相だった課長の表情が一瞬ほぐれ、私の手からコーヒーを受け取った。


「お前まで残ることないのに」

「2人の方が早く終わりますから」

「頼れる部下を持って幸せだな」


 課長の全くそんなこと思ってなさそうな言葉を背中で受け止めながら、課長の斜め前の自席に着く。待機状態になっていたパソコンのマウスをカチャカチャと動かすと、画面がパッと明るくなった。


「さっき、女子社員に噂されてましたよ。チョコ渡した人全員フラれたって」

「噂回んの早いな。あんな甘い塊、食えるわけないだろ」

「まぁ、そんなことだろうと思ってましたけど」


 課長と一緒に仕事をしていればわかる。課長は本当に甘いものが苦手なのだ。コーヒーだっていつもブラックコーヒーを愛飲しているし、取引先でお茶菓子を出されても手を出さないし、お土産に甘いものを渡されてもそのまま私に横流しするくらいだ。女子社員は嘘なんじゃないかとブツクサ言っていたけれど、そんなことはない。おそらく、課長がチョコを受け取らない理由の大半がそれだろう。そんなことを知りもしないで、真正面から「チョコです、食べてください!」だなんて、この男には通用するはずがないのだ。


「女ってバレンタインだのクリスマスだの、イベントごと好きだよな」

「そうですね」

「まぁ、お前はそんなことなさそうだけどな」

「そうですね」

「そうですねってお前、ちょっとは反論しろよ」


 だって事実だもの。彼女たちみたいにイベントごとに浮き立って、そそくさとオシャレしたり、お菓子を手作りしたり、きゃっきゃとはしゃぐなんてキャラじゃないし。

 課長は私のそっけない返事に困ったように笑いながら、私が手渡したコーヒーをゆっくりと口に運び、一口、二口。そしてゴクリと喉を鳴らした。


──飲んだ。


 それを確認してから、さっと視線を外す。あんまり凝視していたら不自然だ。


 何も知らないでキャピキャピと騒いでいる彼女たちと違って、私は小林課長を知っている。仕事中はコーヒーばかり飲んでいること。甘いものは本当に苦手で、間違えて食べてしまった時はコーヒーをがぶ飲みして味をごまかしていること。

 左手の薬指の指輪が本物であること。たまたま見えてしまった課長のプライベートの携帯の待ち受けが、甘そうなパンケーキを前に微笑む奥さんとお子さんだということ。きっと課長はこの後家に帰ったら、甘党な奥さんとお子さんのために、苦いコーヒーで無理してチョコを流し込むのだろうということ。


 私は知っている。だから私は、この気持ちを粉々にして忍ばせておくのだ。例えばそう──苦いコーヒーの中に忍ばせた、一欠片のビターチョコのように。


「……なんか今日のコーヒー、いつもとちょっと違くないか?」

「そうですか?」


 キャラじゃないけど、私も女の端くれだから、今日くらいは許してほしい。不思議そうな顔をしている課長の横で、私は素知らぬ顔をしてコーヒーを一口啜った。

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