麦野陽

第1話

 二か月前のことである。わたしは、鬱々とした気持ちで町を歩いていた。原因は住んでいるアパートにあり、引っ越せばすべて解決するとわかっていた。わかってはいたがなかなか踏ん切りがつかなかった。


 ぽつぽつと歩みを進めていると、いつもは目に入らないものが視界に入ってくる。薄汚れた貼り紙、半分だけになったはさみ、中身が残ったままのスナックの袋。その途中で目についた不動産屋の前で足を止めた。全体的にすこしほこりっぽい外観の不動産屋だ。目を上に向けると、すこし傾いた看板に大きく〝おおた ふどうさん〟と赤色で書いてあり、〝おおた〟の〝た〟だけ、なぜかオレンジ色で書いてある。吸い込まれるように引き戸を左に引くと、あたたかい空気が鼻に飛び込んできた。「ごめんください」声をかけると、のれんの奥でひとの気配がした。


 全国展開しているような不動産屋ではなく、家族経営の不動産屋のようで、ちいさな子どもがショベルカーを持って店内をうろうろしている。いくつか見せてもらった間取り図の中から三つ選ぶと、部屋を見せてもらえることになった。しかし、「車をまわしてきますね」と言ったきり、なかなか男は戻ってこない。寒い外で待つのがいやで、男が戻ってくるまで名前も知らぬ子どもと一緒に過ごした。子どもはショベルカーや救急車やタクシーなど、様々な車のおもちゃを持っていたが、わたしにはひとつとして触らせてはくれなかった。そりゃあ、そうだろう。見ず知らずの女に自分の大事なものは渡すまい。自分の子どもの頃を思い出し、納得したところで本物のクラクションが鳴った。


 連れてこられたアパートはどこも想像通りのところだった。そのうち、もっとも想像通りだったアパートに決め、書類に判を押した。男は書類に不備がないかさっと目を通したあと、上着のポケットに手を入れると十枚つづりの銭湯の回数券をだした。「これはここに住むひとの特典なのです」男は、やけに神妙な顔をしていた。新しいアパートには風呂がないのである。つられてわたしも渡された回数券を恭しく受け取り、ジーンズのポケットにしまった。


 はたして、アパートは住みやすかった。以前住んでいたアパートのように雨漏りすることもなかったし、大家さんがゴミ袋を漁って中の瓶を玄関の前に並べていることもなかったし、夜遅くにベランダで干物を焼く女もいなかった。風呂はないけど、引っ越してよかった。今度、年上の友人を招待しよう。そして一緒に銭湯に行こう。考えながら、玄関をほうきで掃いていると時々視界に桃色が舞った。そういえば、今年はまだお花見をしていない。外に掃きだしたごみをちりとりに集めていると声をかけられた。


「精がでますね」

「ええまあ」


 顔をあげて続きを言おうとしてわたしは止まった。河童だ。こんなところで河童に出会うとは。本物だろうか。止まったわたしを不思議そうに見つめて河童は隣の部屋のドアに鍵をさした。河童は木でできた風呂桶を持っている。そのへりに水玉模様の手ぬぐいがしなしなと垂れていて、触れなくても濡れていることがわかった。


「あなたもお風呂に入るの!」


 ざーっ。足元に集めたごみが散らばる。ちりとりを持っていたことを忘れていた。


「あたりまえじゃないですか」


 河童はわたしの足元のごみを一瞥すると、怪訝そうな顔をして部屋に入っていった。あたりまえなんだ。ふうん。しゃがんで散らばったごみを再び集めて中庭のゴミ箱に捨てると、わたしは自分の部屋に戻った。その際、隣のドアを横目に見ると表札がついていた。そこには力強い字で〝青田〟と書かれていた。


 興奮して年上の友人に河童が隣に住んでいる旨を電話で伝えると、彼女は一通り相槌をうったあとで、まあ、いまどき珍しくないでしょ。河童ぐらい。わたしの寮にも住んでるし。女の子の河童とおばさんの河童。と一蹴した。そうか、珍しくないのか。わたしは電話を切ると、冷蔵庫をあけて、しめて、を数回繰り返し布団にはいった。


 それから何日か過ぎた後、スーパーで青田さんに会った。かごの中には牛乳とレタスとカレー粉がはいっていた。河童もスーパーに来るんだ! 言いそうになったが、数日前のあの表情を思い出して飲み込んだ。レジでお互い支払いを済ませるとなんとなく一緒に並んで歩いた。行き先はどうせ同じなのだから、離れて歩くのもへんだと思ったのだ。


「いい天気ですね」

「そうですね」

「でもあしたからしばらく雨が続くそうですよ」

「じゃあ、桜も散ってしまいますね」

「そういえばぼくはまだお花見をしていないのです」

「そうですか。わたしもです」

「着きましたね」

「みたいですね」

「それでは」

「では」


 玄関の鍵を閉めて買ってきたお弁当を机にだして手を洗った。窓の外を見るとたくさんの花びらが視界を奪うようにとんでいた。こりゃあ、雨が降る前にすべて散ってしまうかもしれないね。ひとり、からあげを咀嚼しながらわたしはテレビをつけた。


 連休最終日の昼下がりのことである。中庭の花壇にホースで水を撒いていると、青田さんに声をかけられた。〝トロピカルリゾート赤富士〟と毛筆体で書かれたエプロンに目を奪われる。そのエプロン、どこで買ったの。いや、もしかしたらだれかにもらったのかも。考えていると、青田さんは持っていた紙袋をわたしに差し出して言った。


「よかったら」


 渡された紙袋を覗くときゅうりが二本とトマトが五個とトウモロコシが三本はいっていた。どの野菜もつやつやしている。「おいしそうですね」わたしが言うと青田さんは自慢げに頷いた。


「故郷に住む妹夫婦が送ってきてくれたのです。ぼくひとりでは食べきれないので、みなさんに配ってまわっているのです」

「みなさんって」

 わたしが訊くと、

「ここに住んでいる方たちのことです」


 と青田さんは答えた。たとえばあの部屋には小人のグループが住んでいます。いくつかの家族が一緒に暮らしていて、人数はたまに増えたり減ったりします。なぜ共同で住んでいるかというと一家族だけじゃ、あの部屋は広すぎるからだそうですよ。家賃の関係もありますしね。その隣の部屋には、男の子がひとりで住んでいます。黄色のランドセルがよく似合う、かわいい子です。たまに余ったカレーをわけてくれますが、本格カレーだから、すごく辛い。水がいくらあっても足りないくらい。それから、三階には大きいおばあさんと小さいおばあさんと中くらいのおじいさんが住んでいます。彼らは時々、性別が変わるので、注意が必要です。

青田さんは、彼らが住んでいる部屋のドアを指差しながら熱心に教えてくれた。どの部屋も、だれか住んでいるようにも住んでいないようにも見えた。


 地面がたっぷり濡れたのを確認して、わたしは水を止めた。ホースを手に取り蛇口に向けてぐるぐる巻いていく。その間、青田さんは、わたしの手元を見たり、水に濡れた葉を指ではじいたり、エプロンの裾をひっぱったりしていた。どうして待っているんだろう。一段、二段と階段をのぼりはじめると、その後ろを青田さんがしずしずついてくる。マンションは静かだった。胸に抱いた紙袋の中で野菜が揺れる音がやけに大きく聞こえた。


 わたしの部屋にはじめて青田さんがきたのは、たしか、梅雨の時期だった。じっとりした天気がしばらく続いていて、町全体が湿っていた。雨の日はどうしてこうも町が色っぽくなるのだろう。わたしは、ベランダから見える向かいの家の屋根をうっとりと眺めていた。いつもはただの青色も、なんだかあだっぽい。天気予報を見るためにテレビをつけると、きのこ胞子警報が発令されていた。この町のきのこはわたしの故郷より成長スピードがはやい。〝外は薬品を撒くのできのこは生えません。もちろん、わたしたち生きているものにも生えたりしません〟と気象庁は言うが、ほんとうだろうか。わたしは、全身きのこだらけになった知り合いを想像してみる。なぜだか、真っ先に青田さんの顔が浮かんだ。


 チラリンチラリン。オーブンの蓋を開け、パウンドケーキを取り出すと甘い香りが脳を刺激した。換気扇をまわすと、刺激はやわらぎ、香ばしい気配だけが残った。久しぶりに会う年上の友人への手土産に焼いたパウンドケーキをアルミホイルで包むと、わたしは鍵を閉めて家を出た。


 帰宅したのは、空が赤くなってからであった。ドアノブをまわした瞬間、ドアの向こうでなにかが落ちる音がした。すわ、泥棒か。思って恐る恐るドアを開けると、泥棒ではなかった。きのこである。玄関に靴箱に、廊下に扉に本棚、机、冷蔵庫……。ありとあらゆるものに、色とりどりのそれがびっしりと生えていた。わたしは手近にあった鮮やかな色のきのこを採るとゴミ箱があっただろう場所に放り投げた。どうして換気扇を止めるのを忘れたのか。自分に呆れながら、わたしはタンスをあけた。もちろん、タンスの中にもきのこはみっちり生えている。足元に生えているきのこを強く踏むと、きゅう、とちいさく鳴いた。


 途方にくれているとベルが鳴った。どうせ訪問販売だ。無視していると、二回、続けて三回鳴った。しつこいな。きのこを蹴り飛ばしながら玄関に進み、扉を開けると青田さんが立っていた。


「まわすのを忘れていました」


 回覧板を荒々しく受け取り、開くと黄色い紙が入っていた。赤い文字で『人さらいにご注意』と大きく書かれている。


 知っていましたか。低い声に視線をあげると青田さんと目が合った。ちいさな、丸い目がぐぐぐと近づいてくる。知っていましたか。近所でひとさらいが増えているそうですよ。なんでも、さらって育児放棄した青い鳥のかわりにたまごをね、あたためさせるんですって。それには、体温が親鳥に近いにんげんがうってつけらしくって。でも、にんげんをさらうのも、にんげんらしいですよ。おかしいですよね、鳥のためににんげんが同じにんげんをさらうなんて。こわい世の中ですねえ。気をつけてくださいね。わたしは体温低いですし、河童ですから。あれっ、きのこ。


 青田さんは背が高い。わたしの頭越しに見えたのだろう。体をぐいと伸ばして青田さんは二回まばたきをした。


「それ、どうするんです」

「え」

「きのこ」

「捨てようかと。邪魔ですし」

 それはもったいない。青田さんの嘴がわたしの鼻先でかちかち鳴った。

「食べ物を粗末にしてはいけません。ちょっと待っていてくださいね」


 しばらくして、大きなかごとゴミ袋を持って青田さんは現れた。かごは竹でできていて、それは青田さんにしっくりなじんでいた。


「そのかご、いいですね」


 わたしが褒めると青田さんは、そうでしょうと力強く頷いて部屋に入った。


 青田さんはきのこをひとつ採るたびにわたしの目の前に持ってきては、


「これはタマゴタケ。煮ると、美味しいのです」

「これはヒトヨタケ。毒」

「これはドクヤマドリ。猛毒」


 と熱心に教えてくれた。しかし、わたしはきのこに興味がもてなかった。嬉々とした青田さんの声にただ頷くだけである。もう、どれがタマゴタケでどれがヒトヨダケでどれがドクヤマドリなのか覚えていない。外見がちがうはずの三つのきのこが記憶の中で混ざっていく。


 青田さんはどんどんきのこを採った。わたしは彼が食べられないと判断したきのこをゴミ袋にどんどん捨てた。放り投げられたきのこを追って、部屋を這うように歩く。ふと、顔をあげると大きな甲羅に目がいった。青田さんの甲羅には苔ひとつ生えていなかった。実家で飼っていた亀の甲羅のふちには、いくらひっぱってもとれない苔のようなものが生えていたのに。きれい。触ると甲羅はつるりとしていた。


「あの」


 きのこを採る手を止めて青田さんは振り返った。


「あの、わたしの甲羅になにかついていますか」

「い、いえ」


 はっとして手を離すと、青田さんはぴぴぴと息を漏らした。春の小鳥のため息のようだと、薄くひらいている嘴を見て思った。青田さんの嘴は甲羅と同じようにつるりとしているのだろうか。ぴぴぴ。手を伸ばし、触ると青田さんは驚いた顔をしたが拒むことはしなかった。嘴は、やはりつるりとしていた。甲羅よりも滑らかで、すこしやわらかい。しばらく撫でて手を離すと青田さんは困った目をしていた。ぴぴぴ。細くのぼっていく吐息が鳴りやむまで、わたしはそれを目で追いかけていた。


 皿が、乾いた。ようやく床が見えてきたとき、ぼそっと青田さんは言った。わたしはきのこを取り除いた冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取りだして青田さんに渡した。幸いにも庫内にはきのこが生えていなかった。


 受け取ると青田さんはペットボトルの水を半分、頭にかけた。跳ねた水がフローリングに水玉模様をいくつか描いた。残りの水は頭の皿にかけず、喉を大きく鳴らして一気に飲み干し青田さんは満足そうに息を吐いた。


「きみの家族は元気?」

「はい」

「なんのお仕事をしているの」

「家族でナマズの養殖をしています」

「それはいい」


 見ると青田さんはよだれをたらしていた。よだれは下嘴から、顎、喉仏を伝って鎖骨へと流れていった。青田さんは気づかないのか、しばらくよだれを垂れ流していた。わたしがティッシュで拭くと、


「あいや、どうも。すみません」


 ともごもご言った。しばらく、いろいろなことを話した。卵焼きはしょっぱいのとあまいのとどちらが好きか、近所にできた新しいスーパーのこと、消費税増税に合わせて値上げされた銭湯の入浴代。あまいほうが美味しいと青田さんは強く押し、新しいスーパーはびかびかしていて入りづらいとわたしがこぼすと、値段があがった分回数券を一枚おまけしてくれる銭湯の心遣いがにくいと言い合った。


 するすると会話が淀みなく続いていく。気づけば部屋の中も外と同じようにうす暗くなっていた。わたしは立ち上がると、部屋の電気のスイッチをいれた。電気は一拍置いて遠慮がちについた。青田さんは眩しそうに目を細めた。


「そういえば、誰にきのこのことを教えてもらったんですか」


 冷蔵庫からペットボトルを取り出しキャップをまわし、訊いた。しかし、返事がない。


「青田さん」


 近づいて顔を覗くと、もともと小さかった彼の目がさらに小さくなっている。訊いてはいけないことだったのかもしれない。ペットボトルの水を口に含みどきどきしながら待っていると彼は答えた。


「父に小さい頃、山によく連れて行かれてね。そこで覚えたんだ。珍しいきのこや山菜はにんげんに高く売れるから、そこで稼いだお金でいろいろなものを買ってもらったよ」


 青田さんの目はもとの大きさに戻っている。ほっと胸をなでおろし、わたしは言った。


「いいお父さんですね」


 とんでもない。青田さんは首を振った。


「いいお父さんなら子どもと女房を置いて若い女河童と出て行かないでしょう」


 よっこいせ。青田さんは立ち上がると大きなげっぷをした。


「残りはぼくがするから、きみは鍋にお湯を沸かして」


 言い終わると青田さんはわたしに背を向けて作業を再開した。わたしは言われたとおりに鍋に水をためるとコンロの火をつけた。お湯はすぐに沸いたが、わたしはコンロの火を弱火にして青田さんの甲羅を見ていた。人工的な明かりの中で、それは静かに動いていた。途中、鍋に水を足した。そのたび、コンロの火を強くし、沸騰すると弱火に戻すという行為を繰り返した。青田さんがきのこを採り終わるまで、わたしたちはなにも話さなかった。


 青田さんが集めたきのこは、さっと洗ってきのこ汁にした。本当は洗わないほうがいいんだけど。青田さんはそう言ったが、わたしはきのこを流水にさらした。指先をきのこの頭に刺して外側に引っ張り、適当な大きさにさく。その間に青田さんは自分の部屋から鶏肉やらねぎやらを持ってきて切った。それらを鍋に落とし、顆粒出汁をふりいれ、しょうゆをたらすといい匂いがした。腹がぐるんと鳴った。


 たくさんできたので、だれか呼びましょう。青田さんはそう言って外へ出て行った。夜も遅いからだれもこないと思っていたが、小人たちが数人やってきた。小人たちはみんな同じような顔をしていた。男は髪を短く切りそろえ、女は腰まで伸ばしている。取りやすいように直接床に鍋を置くと、小人たちは鼻先を斜め上に向けて顔を左右に小刻みに振った。あれは喜んでいるサインだと青田さんはわたしに耳打ちした。独特な喜び方だな。思って最初の一杯をお椀についでやると、彼らは顔をつっこむようにして食べ始めた。まるできょうはじめての食事がそれだといわんばかりの食べ方に驚きながら、わたしもお椀に口をつける。おいしい。もう食べ終わったのか、小人たちは我先にとおかわりをしている。わたしたちと同じ大きさのお椀を使っているにも関わらず、わたしや青田さんよりもたくさん食べた。鍋底がうっすら見えてきたとき、小人たちは鍋を囲んで持っていた箸で鍋を叩きながら言った。


「しめにはうどん」

「しめにはうどん」

「しめにはうどん」


 最初は無視して自分の茶碗の汁をすすっていたが、だんだんと大きな声で言い始めたので、わずかに残ったきのこ汁の中に冷凍うどんを三玉いれてやると、十分に柔らかくなるのを待たずに奪い合うようにして食べた。時折、箸から逃れたうどんがフローリングの床に落ちた。小人たちが食べ終わるまでわたしと青田さんはなにも入っていない茶碗に口をつけていつまでもすすっていた。


 大相撲中継を銭湯の休憩所の椅子に座って青田さんと見た。わたしは牛乳を飲んで、青田さんは持参したうちわで自分をあおいでいた。寄り切り、寄り切りー。男のひとが声を張り上げて、テレビの中の観客たちはそれに一喜一憂する。


 青田さんはどんな技が得意なんですか。底にわずかに残った牛乳を飲み干してわたしは訊いた。勝った力士は玉のような汗を額に浮かべて、インタビューに息も途切れ途切れに答えている。技もなにも。うちわを右手から左手に持ち替えて青田さんは言った。わたし、相撲は不得意なので、しません。


「河童なのに」


 言って立ち上がる。空き瓶のケースは椅子からすこし離れた場所にあった。


「どうして、河童だからといって相撲が得意じゃないといけないんですか」


 牛乳瓶を所定の場所に戻して振り返ると、青田さんが言った。青田さんは無表情だった。


「そういう決めつけって、ヘンでしょう」


 続けて青田さんは言う。変わらず無表情である。もしかして、怒った? わたしはどきどきしながら席に座った。きのこのときと同様に、しばらくお互い会話を交わさなかったが、青田さんのお気に入りの力士が押し出しで勝ったと同時にまた話し始めた。


「そういえば、小人たち、引っ越したんですよ」

「え、そうなんですか」

「男女間のもつれが原因で」

「男女間のもつれ」

「そうです。もつれ」


 青田さんは水かきのついた大きな手でへこんだ腹を掻いた。薄い水かきをはしる細かい血管が青くひかっている。青田さんは、うちわを左手から右手に再度持ち替えた。ゆるい風がわたしの鼻先まで届いて、それは雨上がりのアスファルトの匂いがした。わたしは自分の手のひらにない水かきのことを想った。

上手投げ、上手投げー。テレビの中で、座布団が宙を舞う。


 ニュースが梅雨の終わりを告げ、空は快晴だった。びかびかしていないいつものスーパーに行った帰り道、橋の下でなにかが水をかいている音が聞こえた。どうせまた子どもが泳いでいるのだろう。通り過ぎようと思ったが、それにしては音が大きい。いったいなにが。恐る恐る覗くと、そこにいたのは青田さんだった。水しぶきをあげて、なにかを採っている。声をかけたが、水しぶきの音の方が大きく、わたしの声は聞こえていないようだった。そのとき、はじめて彼の頭の皿をまじまじと見た。


「あっ」


 青味がかっていて、まるくてきれいな色をしている。わたしはアイスクリームを買ったことも忘れてそれに見とれた。皿は川に浮いたり沈んだりを繰り返す。そのたび陽光を受けてやわらかくひかった。あれは。わたしはほとんど身を乗り出しながら考えていた。皿はどんな手触りなのだろう。


 見はじめて五分もたたないうちに青田さんは四匹も魚を捕まえていた。さすが河童。わたしはひとり感心すると橋の柵にもたれた。青田さんが泳ぐ姿はいつまで見ても飽きなかった。それは、恋に似ていた。


 潜ったり顔をあげたり、何回か青田さんは繰り返していたが、あるとき、潜ったきり戻ってこないことがあった。ずいぶん長くあがってこない。わたしは腕時計を何度も確認しながら考えていた。そんなにこの川は深かっただろうか。助けを呼ぼうか。でも、だれもいないな。どうしよう。もし、青田さんが帰ってこなかったら、どうしよう。


 大きな水しぶきがあがった。驚いて川を再び覗くと、皿が見えた。青田さんだった。手にはわたしが両手を広げた長さより大きな魚を持っている。


「満足」


 そう言うと、先に捕まえていた魚四匹を川に戻して大きな魚だけ持って歩いて行った。わたしはしばらく青田さんの遠ざかる背中を見つめていた。それからアイスクリームの袋を開けた。アイスはどろどろに溶けていた。

 

 随分前に野菜をもらったお礼をしていないことを思い出し、料理をふるまうことにした。ふるまうと言ってもたいしたものはできない。青田さんがすきだという焼き鯖ときゅうりの酢の物をつくることにした。


 鯖を焼いていると、忘れ物を取りに帰っていた青田さんが戻ってきた。


「これ、去年、郷里から届いたゆず酢。まだ家に二本、あるからあげる」


 薄黄色の液体が入ったペットボトルを机に置いて青田さんは言った。開けるとゆずのいい匂いがキッチンを漂った。


「さてと」


 呟くように言うと、ゆず酢と一緒に持ってきた新聞と水を手に青田さんはベランダにむかった。いつものか。わたしは横目でベランダに新聞を敷く青田さんを確認すると、切ったきゅうりに塩を振った。


「天気がいいと、甲羅干しをしたくなるんだ」


 ふたりで公園に出かけた時、そう言って青田さんは芝生の上にうつぶせになった。真似をしてわたしも横になってみると、なるほど、気分がいいのであった。正面で浴びるより、よほど健康的な感じがした。どうです、いいでしょう。くぐもった声で青田さんが言い、なかなかいいですね、これ。同じようにくぐもった声でわたしも返した。その日は夜になってもなんだか体中熱っぽく、眠るのに大層苦労したが、寝起きはすっきりとしていた。


 わたしは冷ましほぐした鯖の身から骨を取り除きながら、乾いてだんだんと白っぽくなっていく青田さんの甲羅を見ていた。時折、青田さんはペットボトルに入った水を自分の頭の皿にかけた。その水は太陽の熱をぎゅっと含んで、わたしの目にほとんど暴力的に刺さった。青田さんの甲羅の上を小人の子どもが駆けていく。あれ、出て行ったんじゃなかったっけ。子どもは足がはやい。ぐらぐらと空気が揺れた。きっとこれからもっと暑くなる。


 塩もみしたキュウリとほぐした鯖をゆず酢としょうゆと砂糖で和える。ちょうどいい器がなかったのでどんぶりに盛った。高く、高く、盛った。


「青田さん、できたよ」


 ベランダを覗くと青田さんは眠っていた。甲羅の上を駆けていた小人の子どもはいつのまにか二人に増えていた。こちらも甲羅の上で眠っている。


「ねえ、青田さん」


 しかし、何度呼んでも青田さんは返事をしなかった。皿はからからに乾いている。たしか、河童は皿に水分がなくなるとよくないんじゃなかったか。それとも、よほど熟睡しているのか。


「皿が」


 わたしは青田さんの頭の皿を撫でた。つるりとしていた。そして思ったより、ひんやりしていた。甲羅とも嘴ともちがっていた。小人の子どもが寝言を言った。


 慌てて、そばにあったペットボトルの水を青田さんの頭の皿の上で傾けた。水は頭の皿にあたるとわずかに弾んで彼の髪の毛を濡らした。


「青田さん」


 空になったペットボトルを持ったまま、わたしはもう一度、青田さんの皿に触れた。

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