第5話キュイール
もしも部屋の証明がヤヅァムの魔法ではなく、蝋燭やランプのものであったら。きっと、芯が燃えるジリジリという音が聞こえたかもしれない。
スェマナはこれから起きるであろうことが恐ろしくて、顔を上げられない。
そんなスェマナに投げかけられたのは、随分あっけらかんとした声だった。
「あは、君、さっき道案内してくれた子?」
え……?
バッという勢いでスェマナが顔をあげてみると、そこにいたのは昼間会ったばかりの男だった。男は行儀悪くソファに寝転んだまま、ふにゃりとこちらまで気の抜けるような笑みを浮かべている。
間違いない。領主館まで送った迷子さんだ。
「俺、何かサービス頼んだっけかな……?とりあえず、そこに座って?」
にこにこと、優しい笑顔。この宿に来るきっかけとなったイハナヒも、来たばかりの時のタハナフも、人好きのする優しい笑顔だった。優しそうな笑顔だから、好い人とは限らないことをスェマナは知っている。
それでもなんとなく、身の安全を感じた。
彼はキュイール、と名乗った。
「ここで働いてたの?偶然ってすごいねぇ。
あ、お茶入れられる?サービスっていうなら、そのくらいはお願いしても良いよね?」
キュイールはだらしない姿勢のまま、テーブルに用意されたつまみに手を伸ばしていた。
「お酒は、お口に合いませんでしたか……?」
手をつけた様子の無い酒器を横目に見ながら、スェマナはまだ震えの残る手で茶の準備をする。
「あー、うん、今はちょっと飲めないかな?
……君、名前は?年はいくつかな?」
一瞬びくりとなったが、隠しておかなければならない事でも無いだろう、と思い直す。
「スェマナ……16歳、です」
キュイールからは、ふぅん、と聞いているのだか、聞いていないのかよく分からない返事が返ってきた。
「どうぞ」
温かく湯気の立つ茶から、ふんわりと、良い香りが舞うように広がっていく。
「スェマナは、こうして個室で客の相手をするのは、初めてなんだって?」
ギクリ、とした。やはりしなければならないのか、と思っただけで全身が強張るような感覚があった。
「……はい」
だから、か細い声で返事するのがやっとだった。
衣擦れの音がして、それだけでも俯いていたスェマナは飛び上がりそうになる。……しかし、キュイールは、静かに茶を口にしただけだった。
「この宿屋では、『特別なサービス』があるって、やっぱり本当だったんだね?」
『特別なサービス』が何を指しているのか、ここでしばらく働けば誰にでもわかることだ。スェマナは小さく頷いた。
「君と、ここにいる従業員……君の友人達に対する扱いは犯罪じゃないのかな?」
スェマナにはわからない。
村にいたときはこんな場所があるなんて知らなかったし、村を出てからはここしか知らない。キュイールはここに何をしに来たんだろう?ただ、宿泊するだけならスェマナが寄越される筈がない。サービスを受けに来たのなら、なぜこんな会話をしているのか?
「……とりあえず、スェマナ。君は私が保護させて貰おう」
キュイールの手にあった茶器がカチャリ、と固い音をさせた。そのころ、部屋の外はドタバタと騒がしくなっていた。悲鳴、怒声、何かが倒れるような音、物の割れる音、たくさんの靴音。
「スェマナ!無事か!?」
バタン!
勢いよくドアが開いて、ヤヅァムが飛び込んできた。
「え?……ええ、無事だけど……」
「おい待て!待てってば!」
その後ろから、見知らぬ男も乱入してくる。男はキュイールを見てはっとしたように一瞬姿勢を正し、それからヤヅァムを捉えようと手を伸ばした。
ヤヅァムの方は、スェマナを自分の体の陰に隠しつつも、酷いことをされていないか、服が乱れていないかをチェックしていた。
「お……っわぁ!?」
キィン、と硬質な、高く済んだ音。白い膜の様な何かが、ヤヅァムを捕らえようとしたその手を弾いた。その光景を目にしたキュイールが、驚きに目を見開いて、勢いよく立ち上がる。
「魔法!?」
「お前達、なんなんだよっ!?」
ヤヅァムが叫ぶ。ヤヅァムの手のひらの少し上には火の玉が浮かんでいて、いつでもキュイールや、男に向かって投げられるのだと存在を主張していた。
「……ああ、もしかして、君がヤヅァム君か」
そう言って、緊張を解いたらしいキュイールがどさりとソファに腰を落とした。
「君は行ってもいいよ……さて、ヤヅァム、我々は君達保護したいんだけど、話は聞いて貰えるかな?」
男はキュイールに頭を下げてから退出した。どうやら、キュイールはかなりの身分の御仁らしいなと思いながら、スェマナはそっと伸ばされ、握られたヤヅァムの温かい手を握り返した。
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