第4話イーリグの街(2)
ヤヅァムは学校へ通うことになった。
魔法を使える者は、学校へ行くものらしい。
スェマナは学校には行かせて貰えなかったが、代わりにタハナフや、調理場の男がスェマナに文字の読み書き、そして簡単な計算を教えてくれた。
たまに宿に客として泊まりに来る、縫い物が得意なお婆さんにもいろいろ叩き込まれた。仕立てが良いと最近評判の、宿の新しいお仕着せはスェマナが縫ったものだ。
調理係の男の機嫌が良いときには、調理も仕込まれる。ここ数ヵ月は、賄いを作るのがスェマナと数人の裏方の仕事になりつつあった。
魔法が使えないスェマナは、仲間達と早起きして火をおこし、宿の料理の下拵えをし、洗濯、掃除、接客、縫い物をする。
同じ年頃の仲間達が客室に行っている間、縫い物仕事や料理、文字の読み書き計算を習う。
宿屋の使いとしていくつかの店舗へ集金や支払い、買い出しを命じられる事も増えてきた。
ヤヅァムが帰ってきたら、少しはスェマナの仕事を手伝ってもらえるが、ヤヅァムにも仕事は山ほどある。
冷暖房完備、夜も煌々と明るく、見目の良い従業員ばかりが揃った、サービスの行き届いた宿屋。
それが町の者達からスェマナが耳にした、タハナフの宿屋の評価らしい。
今日もスェマナはなんとか賄いの量を増やそうと腐心する。毎日ほんの少し与えられるパンとスープだけではスェマナだけではなく、従業員の皆が足りないと感じている。……せめて、 睡眠時間だけでもたっぷり欲しい。
それでも、他の従業員達と比較して、スェマナがほとんど殴られる事がなかったのは運が良かったのかもしれない。
この頃になるとスェマナはいろいろな事を諦めてしまっていた。
少なくともここにいれば、狭い部屋でも暖かい布団で眠ることができる。
服も、お仕着せがあるからぼろではない。むしろ良い物を身に付けている自負があった。……だって、この服はスェマナが縫ったものなのだ。町で褒められ、近頃は宿の従業員どころか、町の奥様方から注文が入ってくる有り様だ。
とても足りる量では無いが、食事もきちんと食べられる。自分が賄いを作ることで以前よりも量の方は改善した。
それに、毎日ほんの僅かだが、給料が出る。
スェマナはほとんどお金を使わない生活をしているので、貯めることが可能だ。
……そんな生活は何年か続いた。
村にいたときよりも遥かに厳しくとも、森で過ごした数日と比較すればまだまし、という思いがあった。
その日もスェマナはタハナフの使いとして町を歩いていた。公園を通りすがり、その光景の眩しさに目を細める。
芸人が、色とりどりの球を投げる芸をしていた。
小さな子供や、その親がニコニコと笑顔でそれを眺めている。
芸人の背後には噴水がある。何かの像の、手に見える所から水が涌き出ていて、落ちる水は光が当たってキラキラと光っていた。
スェマナはその光景を、通りから噴水越しに見ることしかできない。噴水の中央に置かれた石像は有名な何からしいが、それが何なのかをスェマナは知らない。
「あの、お嬢さん。そ、君。ねえ、すまないけど、領主館てどこかな?知ってる?」
ふいに、声がかけられて、スェマナははっと我に帰った。
お嬢さん、だなんて呼ばれ方は初めてだ。どうにもくすぐったい。
「領主館、ですか?」
少しの寄り道なら可能だろうか。はにかんでスェマナは微笑んだ。
随分と身なりのよいその男性を、スェマナは領主館が見える辺りまで送り届けそして帰った。
タハナフには、帰りが遅いとぶたれた。
「……ごめん、守ってやれなくて」
学校から帰ったばかりのヤヅァムが、スェマナの腫れた顔を見て辛そうに顔をしかめる。ヒビだらけのコップを持つように、そっとヤヅァムの手が、じんじんと痛むスェマナの頬に伸ばされて、添えるように当てられる。
「ううん。ヤヅァム、こうやって魔法で痛いの治してくれるでしょ?それに、部屋の明かりとか、暑いのも寒いのも良くしてくれる」
一人でない、ということが今のスェマナの心の支えだ。
ヤヅァムの魔法については何かが凄いらしい、とだけスェマナは知っている。
そんな凄いヤヅァムが、あたしの味方。
ぶたれた頬の痛みが引いていくと、スェマナの心は少しだけ安らいだ。
ただ、今日は寄り道をして帰りが遅くなった分、仕事が溜まっている。床屋のおかみさんの服を納めるのは明後日だった筈だ。
「タイマーで朝メシが作れればっていつも思うんだけどな」
ぼそりと呟かれたヤヅァムの言葉が、スェマナにはよくわからなかった。
治療が終わると、ヤヅァムは自分の仕事にとりかかるため、スェマナの部屋を出ていった。
そろそろ夕暮れが近い。宿の明かりも冷暖房も、今は全て、ヤヅァムの魔法なのだ。
スェマナだって、今が手空き時間というわけではない。仕事はいつでも山ほどある。
今夜は徹夜するしかない。
ふぅ、と一息ついて、スェマナはきっとまだ、たくさん残っているであろう洗濯から取りかかろうと扉に手をかけた。従業員のためにある、天井が低く最低限の明かりが灯された暗い廊下の角を、ちょうど、タハナフがやってくる。
「スェマナ、来い」
嫌な予感がする。
先程とうって変わって機嫌のよさそうな、舌なめずりをする爬虫類のようなタハナフの表情を見て、スェマナの口に苦いものが、広がっていく気がした。
「スェマナ、お前、顔は綺麗だからな……手を出さなくて良かった」
くらくらする。
「お偉いさんが来てる。お相手をしろ」
お偉いさんの、お相手。
他の女の子がそういう事をさせられていることを、スェマナも流石に知っている。この宿はサービスが良いことで評判なのだ。見た目が良い子ばかり揃っている。
従業員は何回か『お相手』をさせられたら、そのあとは気に入ってくれた客に連れていかれたり、よその店に連れていかれたりするのだ。
いつか、スェマナに親切にしてくれたあの女の子もとっくの昔に連れていかれて、それからもう、ずっと会っていない。
「それは……あたし、何もできません」
ここから連れていかれてしまうような事があれば、ヤヅァムと離れ離れになってしまうではないか。ヤヅァムと離されたくない。そんな事になったらスェマナは本当にひとりになってしまう。
今迄、スェマナとヤヅァムだけはそういう事をさせられず、だからスェマナはここにずっと居ても大丈夫なんだと思っていた。一部の仲間達と、スェマナが特別扱いされるのは次の宿屋の主にさせられるからじゃないか?だなんて軽口を叩いた事もあるくらいだ。
泣きそうになりつつ、スェマナはタハナフを見上げる。ヤヅァムが灯した灯りに照らされたタハナフの顔は、下卑たとしか表現できない笑いを浮かべていた。
「なぁに、全部お任せすればいい。……そうだ、適当に声は出しておけ、気持ちいいとか言っておけば喜ばれる」
森で、冷たい地面の上で寝るよりは、ましな筈。
きっと酷い顔色をしているだろうと思いつつ、スェマナは指定された、この宿屋で一番上等な部屋のドアを開けた。
「スェマナです……お相手、を、」
そこから先はもう、言葉が喉につかえて言えなかった。
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