第6話 初仕事

5月4日(火) 06:00


 翌朝彼女は6時ちょうどに目を覚ました。規律正しい生活を軍では送っていたし彼女自身朝が苦手と言うわけでもなかった為だ。共同で使うことになっている居間にはもちろん彼の姿はなく、無機質で暗い部屋の中で無駄に数の多いテレビがこちらをじっと見ていた。


 ちなみに居間として使っている部屋は、隣り合う二つの部屋の間の壁を取り壊して繋げて広くしている。この居間もほかの部屋の例に漏れず本や(彼女から見れば)ガラクタの巣窟となっていたが、自分の使用するスペースは整っていなければ気が済まなかったので昨晩必死に掃除したのだった。


 そのおかげで冗談無抜きに二倍近く広くなった部屋で彼女はコーヒーを飲むことが出来ている。彼の分も淹れておこうかとふと思ったが居間の隣の彼の部屋からは全く物音がせず、いつ起床するのかもわからなかったため辞めておいた。ちなみに彼女の部屋は居間を挟んで深山の部屋の反対で、居間とつながっている深山の部屋とも繋がっていたがまだ一度も入ったことはなかった。


 朝食を済ませて、昨日やり残した掃除を片付けた後も彼が部屋から出てくる気配がなかったため、この辺りの地図を覚えることも兼ねてランニングに出かけることにした。自慢ではないが一度通った道は忘れない自信が彼女にはある。


 病院で鍛えていたとはいえ目が見えなかったので、飛んだり跳ねたりする類の訓練はあまり出来ていなかった事もランニングなどと言う古風な運動に向かわせた動機であるらしかった。




 彼女が帰宅すると深山は居間でのんびりとコーヒーを飲みながら、かなり眠たそうな顔でテレビを見ていた。服は昨日のままだった。


「おはようございます。少し外で運動をしていました。キッチンにあったコーヒーメーカーを勝手に使わせてもらいましたが良かったですか? 粉はもちろん持参したものを使用しましたが」


 彼女は朝食をとる際に気にかかったことを尋ねた。


「おはよう、おかえり。あぁ構わないよ。キッチンにあるものは自由に使ってもらって構わない」


「わかりました」


「笹原君もコーヒー飲むんだね。イメージ的に緑茶だと思っていたよ」


「なんですかそのイメージ。あの・・・昨晩は何か仕事をしていたのですか?」


「あぁ少しね。あんまり成果はなかったけど」


「あの・・・現時点で私がお役に立てることはありますか?」


「大掃除してくれたじゃないか。この居間、ホントはこんなに広かったんだね」


 彼は本気で驚いてる風に言った。


「そういう仕事では無くてですね、その」


「そう焦らなくても大丈夫。まさに今日、君に仕事を頼もうと思ってたんだ。俺の仕事はね、下準備が大事なんだ。準備が本番と言ってもいい。準備段階でこの仕事は無理だと判断すれば仕事を放棄することだってある」


「はぁ...」


「で、実は今朝別の依頼が舞い込んできていたんだ。あまり愉快な類の依頼ではないけどね、俺の仕事がどんな感じなのかこの依頼で知ってもらおうと思う」


会話しているうちに目が覚めてきたのか深山は饒舌に話し出した。


「今日ですか?」


「そうだ、今夜だ。と言っても準備はもう終わっているから心配しなくていい」


「どのような依頼なのですか?」


「まぁ浮気調査かな」


 彼はつまらなさそうに答える。あまり乗り気ではないことが彼女にも感じられた。


「そんな俗っぽい仕事も受けているんですね...」


「むしろこっちが本業と言ってもいいくらいだよ」


「そうなんですか」


 事実、彼が市原から仕事を受けるのは多くても1か月おき程で、それ以外の時は普通の探偵業をしているのだ。


「ところで笹原君、オートバイの免許は持っているようですが、いまでも乗りこなせますか?」


 少し目が覚めてきたのか多少はっきり押した声で彼が尋ねる。


「長い間乗っていませんが、乗り出せば思い出せると思います」


「良いでしょう。ついてきてください」




 彼は彼女を一階へと連れて行った。一階はほぼ完全に物置となっておりガラクタ(彼にとっては財)やオートバイもそこにしまい込まれていた。彼はその中の一室に彼女を招き入れた。


「これが俺の持っている中で一番新しい乗り物です。今日から、とは言いませんが金曜日までにこいつに乗って都内の道をすべて覚えてください」


 電動モータ駆動、オートバランサー、オートドライブ搭載だがマニュアルによる運転も出来るモデルである。SB端末とリンクしてナヴィゲーションシステムも使えるがこの時代においてはかなり古いものだった。


「高速からバイパス、裏道、とにかくどこからでも目的地さえ指定されれば一瞬で最短ルートが頭に浮かぶようにです。ナビゲーションシステムではどうしても裏道などが抜けてしまい迅速性に欠けてしまうのですよ」


「分かりました」


 彼女はこの妙な仕事を何の迷いもなく受け入れた。道を覚えるのは得意だったし何より彼の声音が、この程度の事は出来て当然ですよね?と告げていたからだ。この程度がこなせなければ恐らくこれから先も浮気調査のような仕事ばかりで、重要度の高い仕事は任せてもらえないだろうと彼女は経験的に感じていた。


「認証カードはそこの棚に。そのカードでスタンドでのバッテリー交換料金、道路の通行料金も払えます」


 現在のスタンドでは充電などは行われず予めスタンドで充電してあるカーボンバッテリーを交換する方法になっている。バッテリーへの負荷が少なく、何より時間がかからない為だ。そのためバッテリーの規格も車種によって統一されている。  


「まぁ、たちまちは今夜の仕事だけどね」


「そうですね」


「詳細は昼食でもとりながら話そうか。良い店を紹介するよ」


 情報をやり取りするだけならばSB端末を介して瞬時に行うことが出来るが、これが今夜の気が滅入る仕事に向けて英気を養うことが目的であることは彼女も理解していたのだろう。特に異論を唱えることはしなかった。

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