倒懸模様

よく「人それぞれ悩みがある」なんて言われているけれど、どうだろう。

この言葉からは「人それぞれ」の悩みがまるで”同レベル”に存在しているようなニュアンスがある。人の貴賤・位・貧富問わず果たして人は同レベルの悩みを持っているのであろうか。


例えば、貧乏人と金持ちの持つ悩みについて考えてみる。


貧乏人は明日を食いつなぐ為の用意で頭がいっぱいで、その事ばかりを考えている。今日は生きながらえた。だけど明日は…?畜生、どうしたって俺はこんなに貧しいんだ。そんな漠然とした不安を常に抱えている。


金持ちはどうだろう。食には困らない。毎日うまい料理が決まって用意される。金持ちが食にかける悩みといったら、ステーキにどこからナイフを入れようかとかそんな程度である。しかしながら、金持ちも悩んでいる。彼は金持ちの中では比較的中間的なステイタスであるから、明日のパーティーに来ていく服で悩んでいる。コレを着ようか、いやさすがにこんな貧相な衣服では”上”の奴らに舐められてしまうのではなかろうか。ああ、もっと位の高い金持ちに生まれていれば…。そのような漠然として気持ちを常に抱えている。


果たして、この2者が同等の悩みを抱えているだろうか。

無論の事、ヒトの持つ悩み同士を天秤にかけ、公正にその重さを比べるアストレアの様な神はいないから、両者を単純に比較などできようもない。しかしながら、僕らの直観として、(この2者を仮に比べることが出来るとして)、この2者は明かに違うレベルの悩みであると言える。ステージが異なると言っても良いかもしれない。このステージとは俗にいうマズローの欲求階級のどこに悩みがあるかと言い換えて良い。


貧困者はこれはもうかなり基本的な人間の欲求である「食」が満たされていない。このレベルの悩みは非常に原始的なレベルでの悩みである。一方で、金持ちはこのような悩みはとうに超えていて、もはや「自己実現」の階層の悩みだ。より文明的な悩みと言える。


両者の悩みは絶対に分かり合えない。仮に金持ちが貧乏人に「明日着ていくパーティーの衣装が無い」と相談するとしよう。貧乏人は恐らく、その相談に答えられない。逆もまた同様である。両者は言語的にはつながっていても、精神の欲求レベルでは全く異なっているために、絶対に会話を行うことが出来ない。欲求階級の壁は確実に両者を相容れないものとする。



この貧乏人と金持ちの例は飽くまで極論であるが、多かれ少なかれ、普段の人付き合いの中でこの「欲求階級の壁」を感じる事は多々ある。特に、「承認欲求」を満足していない者(=極論するところの貧乏人)と「承認欲求」は満たされているが「自己実現」が満足していない者(=極論するところの金持ち)との差は歴然としたものがある。


僕はかれらと絶対にわかりあえないと思う。

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累卵の危うきに あえば @Aeba_ec

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