第65話 「この女が何者か、教えてやろうか」
「
ルロイは、喉の奥から押し出すような蔑みの唸りをあげた。
奪ったばかりの剣を、さながら唾棄すべきものであるかのように打ち捨てる。剣は夕日のきらめきを受けてまばゆく瞬いた。けたたましい残響の尾を引いて崖下へと転がり落ちてゆく。
耳をそばだて、音の行方を追いかけつつ、ルロイは険しい面持ちで吐き捨てた。
「俺たちの森を荒らすな。そっちが手出しをしなければ、こっちもこれ以上の反撃はしない。さっさと帰れ」
だが、視線が逸れた一瞬の隙を、ルドベルク卿は見逃さなかった。
呆然と座り込んでいたままのシェリーへと走り寄る。
「シェリー!」
ルロイが叫ぶのと、ルドベルク卿の動きに気付いたシェリーが逃げ出そうとするのとが同時だった。だが、間に合わない。
ルドベルク卿は、シェリーの首に背後から腕をまきつけ、ぎりぎりと絞め上げながら押さえ込んだ。
「どうだ、
勝ち誇った狂気の顔でルドベルク卿は喚いた。力なくもがくシェリーの身体を荒々しく引っ立て、崖っぷちに立つ。シェリーは喉の奥で悲鳴を上げた。
「もうこれで手出しできまい。この女が死んでも良いのか? ああ?」
ルロイはぎらりと燃える狼のまなざしをルドベルク卿へと突き立てた。
「シェリーを離せ」
「武器を捨てろ」
ルドベルク卿が悲鳴じみた恫喝の笑い声をあげる。
「こっちへ寄こせ」
ルロイは無言で眼をほそめた。手にした棍棒をルドベルク卿の足元へと放り投げる。
「動くな。一歩でも動いたら、この女を崖から突き落とす」
ぬめるような冷や汗を光らせながら、ルドベルク卿は息を荒げて吐き捨てた。憎悪の息を吐き散らし、身をかがめて棍棒を拾い上げる。
「それが人間のやり口か。人質を取って楯にすることが」
ルロイは冷ややかにあざける。眼の奥に、音もなく、荒々しく、瞋恚の炎がゆらめいた。
「抜かせ、下郎。要はここの差だ。けだものの分際で、人間様に勝てるだなどと、まさか本気で思っていたわけではあるまい?」
ルドベルク卿は己のこめかみを指先でたたく素振りをして見せながら、野獣めいた息を吐き散らして笑った。
「笑わせるな。
憎々しい嘲笑を放つ。
「この女の正体を知ったら、貴様も、貴様の仲間も、今すぐこの女をなぶり殺しにしてやりたくなるはずだ」
「本当は何者って」
ルロイは、わずかに眼をみはった。
「何言ってんだ、てめえ。シェリーはシェリー……」
ルロイの視線がシェリーの眼を追う。シェリーは反射的に眼をぎゅっとつむった。まっすぐに眼を合わせられなかった。ルロイが絶句する。
「……正体?」
ルドベルク卿はうわずった声をますます裏返らせて喚き散らした。
「知らなかったのか? 知らずに、この女を囲っていたのか?」
壊れた笑いが吹きだした。ルトベルクはひとしきり馬鹿にしきった哄笑を放ち続けたのち、ふと笑いを止めてルロイを見やった。
「この女が何者か、教えてやろうか」
酷薄な冷笑が口元に広がる。
「知りたいだろう……?」
眼が、ぎらぎらと喜悦にぬめる。
ルロイはシェリーを見つめ、何度か眼をしばたたかせた。乱暴に引きちぎったように見える、ひどく短くなってしまった髪に気づいて、表情を固くこわばらせる。
ざんばらに切り落とした髪が、くしゃくしゃにもつれ、風にかき乱される。
聞かれたくない。
知られたくない。
シェリーは無意識に耳を手でふさいだ。
たくさんのバルバロを傷つけ、苦しめ、奴隷にして働かせ、命を奪ってきた人間の国。
その国の王女だったことを、ルロイにだけは、知られたくなかった。それが、どんなにわがままで自分勝手な感情か重々分かっていたけれど、でも。
ルドベルク卿は容赦なくシェリーを指さした。
「言ってやろう、真実を。この女の名を聞いて後悔するなよ?」
自らの言葉が与えるであろう衝撃と勝利に酔いしれ、堪えきれぬ笑いを爆発させる。ルロイは殺意を秘め隠した暗い眼差しを、ひそかにルドベルク卿へと向けた。
「いいか、よく聞け。この女こそ……」
「あーーあー、うるせえな、さっきからブンブンとハエが飛び回って」
ルロイは、耳元の蜂を払いのけるような仕草をしたあと、ふっと敵意をほどいた。肩の力を抜く。
「名前なんかどうでもいい。そんなことより」
拳を掌に押し当てて、指の関節をぼきりと鳴らす。漆黒のまなざしに、獰猛な猛獣の眼光が伝い走った。ぎらり、不穏に、瞬く。
「シェリーを返せ、っつってんだよ俺は! 聞こえねえのか、このパンツ野郎!」
ルロイの巨大な拳がルドベルク卿の顔にめり込んだ。パン生地をぶん殴ったみたいに顔がゆがむ。
「がああああ……っ!?」
ルドベルク卿は鼻血まみれになった顔を押さえ、もんどり打った。
「私の、私の美しい顔がぁっ……!」
「うるさい黙れこの変態ナルシスト野郎」
鼻梁のしわが明らかに深々と嫌悪の形を刻む。
「シェリー、来い」
ルロイが手を差し伸べる。シェリーは半ば倒れ込むようにしてルロイの胸へと飛び込んだ。抱き止められる。
ルロイの尻尾が、こんな状況にもかかわらず、ぱたぱたと大きく揺れ動いているのが見えた。視線に気付いたのか、ルロイはややばつの悪そうな顔をして、にやりと笑う。
「尻尾は正直だよな」
「ルロイさん、後ろ!」
反射的に叫ぶ。その背後に、黒い影が降り迫った。
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