第66話 絶対に離さない
「油断したな、
ルロイの叫び声と、しゃがれ声で笑うルドベルク卿の声とが入り混じる。
遅かった。むしゃぶりつく黒い手がシェリーの視界をさえぎる。髪を鷲掴まれた。恐ろしい力で引きずられる。
悲鳴を上げる間もない。
視界が激しくぶれ、前後左右に揺れ動いた。
今までは前方に森が、背後に崖が見えていたはずなのに、一転して薄暗い空ばかりになり、夕日がまるで地面から下へとこぼれ落ちてゆくかのような、さかさまの光景が見えて、それから。
突き落とされたのだ、と。気付いたときにはもう、身体が大きく
目の前に断崖が見えた。険しく切り立つ剥き出しの岩肌、ごつごつとねじれる木。
一面の森が急斜面を這い上ってくる。どこまでも続く崖。直下には大きな河。こんな高さから落ちたら、絶対に助からない──
「シェリー!」
ルロイが飛び込んできた。
崖の上へ張り出すようにして伸びた枝にぶら下がり、ほとんど全身を投げ出さんばかりにして、崖から足を滑らせたシェリーの手を掴む。
枯れ葉が舞い散っていた。
シェリーは愕然とルロイを見上げた。
身体が、ぶらり、ぶらりと揺れている。足元には何もない。ルロイが片手一本でシェリーを支えていることに気付いて、喉に詰まった呻き声をもらす。
「大丈夫か」
ルロイがこわばった笑いを浮かべながらたずねる。掴んだ枝の樹皮がはがれ、ばらばらと散った。
完全に宙づりだった。シェリーは呆然と頭を振る。
「大丈夫だよ」
ルロイは掴んだ手に力を込めた。こめかみからどっと汗が噴き出す。
食いしばった歯が、ぎりぎりと軋む。
ルロイは、渾身の力を込めてシェリーの身体を引き上げた。中空にあった身体が、じりじりと持ち上げられる。
ルロイは冷や汗を滲ませつつ、平然と笑った。
「すぐに助けてやるからな。あともう少しだ。痛いだろうけど我慢して。もう少しだから」
シェリーは声もなくルロイを見上げる。
その背後に、信じられない光景が見えた。
「もう逃げられんぞ」
爆発する笑いが目の前に散乱した。
「
ルロイの真後ろに、血まみれの顔を憎悪にゆがめたルドベルク卿が仁王立ちしていた。
「勝負あったな」
棍棒を振り上げる。
「やめて……」
シェリーが叫ぼうとしたとき。
ルドベルク卿はルロイの後頭部めがけて棍棒を打ち下ろした。
鈍い音がした。掴んだ腕を通して衝撃が伝わる。うつむくルロイのこめかみから、赤い血の筋が流れ落ちた。
「ルロイさん……!」
だが、シェリーの手を握るルロイの力は、微塵もゆるまない。
「死ね。死ね。死ね」
ルドベルク卿はおぞましい罵詈雑言を吐き散らしながら、容赦なく何度も棍棒を振り下ろす。恐ろしい音が続いた。そのたびにルロイの身体が揺れ、血のしずくが飛び散った。
シェリーは声を嗄らし、叫んだ。
「もうやめて。そんなことしないで。おねがい、やめて」
手を離せば反撃できるのに──
シェリーは身をよじった。ルロイの手を振り払おうと、必死に足をばたつかせ、ルロイの手をもぎ離そうと叩く。
「もういいの。もういいから。手を離して。ルロイさんまで死んじゃう」
ルロイはかたくつぶっていた片眼をわずかに開けた。
「いくらお願いされても、さすがにこればっかりは聞いてやれないな」
血がにじむほど食いしばった口元が、不敵に吊り上がる。
「絶対に離さない」
「だめ……そんなことしちゃだめ」
ルロイの腕一本に命まで支えられたシェリーは、おそろしさと自己嫌悪に耐えきれず、すすり泣いた。
「わたしなんかのために」
ルドベルク卿は血なまぐさい笑いをあげた。肩で息をし、棍棒を地面に突き立てて、荒々しい呼吸を吐き散らす。
「血迷ったか、
耳障りな嘲笑が、やけにこわばった響きをこだまさせ、夕闇の渓谷に響き渡ってゆく。
「おかしいとは思わなかったのか? 誇り高き人間が、おぞましき
「黙れ」
ルロイは耳を伏せ、歯を食いしばる。
握り合った手が血にまみれてずるりと滑った。シェリーは息を呑む。
ルドベルク卿は鬼気迫る笑みを浮かべた。
「冥土のみやげに教えてやろう。貴様が、自分や仲間の命と引き替えにしてでも助けようとしている女の名を」
赤くめくれた口の端がべろりと吊り上がっている。おぞましい形相だった。
ルロイの背中を棍棒で何度も小突き、あざ笑う。
信じがたいほど醜い顔だった。鼻持ちならぬ貴族の仮面を剥ぎ取られ、剥き出しの本性があらわになった顔。これが果たして本当に人間の顔なのか、とさえ思った。なのに。
唐突になぜか、昔、おとぎ話に聞いた魔法の鏡を思い出した。鏡よ鏡、世界で一番美しいのは……
「シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティ」
雷に打たれたかのようだった。
この世に魔法の鏡など存在しない。鏡に向かってこれ見よがしに強欲で高慢な問いを投げかけたところで映し出されるのは醜い真実──無様で、愚かな、自分の顔だけだった。
「世界でもっとも罪深い名だ。貴様らバルバロを、家畜同然の扱いをして何千匹と狩り集め、売り払い、奴隷にして死ぬまで働かせてきた張本人。それこそが王女シャロン・コランティーヌ、その女だ」
「王女」
ルロイは、呆気にとられた顔をしたあと、ふいに真顔になった。
「シェリーが……王女?」
繰り返す。
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