第35話 近づいただけでぺろりとおいしくいただかれちゃうらしい
「そう! 大きな声で言えないようなあんなことやそんなこと。もうヤッた!?」
「……大きな声では言えないような……?」
そこまでおうむ返しに聞き返してから、あわててぶるぶると頭を振る。
ルロイはいつも優しい。確かに力は強いけれど、乱暴な言い方をしたり、大きな声を出して怒鳴るようなことは絶対にない。
シェリーはにっこりと答える。
「いいえ、全然そんなことないですよ」
「なあんだ、やっぱだめじゃん」
あからさまに期待はずれ、といった顔をした少女たちは、白けた顔で文句を言いながらシェリーから離れてゆく。
「そういうトコは、アドルファーさまとは全然違うよねー」
「あの方と一緒にしちゃダメだって。あっちは本物の肉食系だもん」
「近づいただけでぺろりとおいしくいただかれちゃうらしいよ」
「えええマジで……って、そういう意味なの?」
「それよりもさ、聞いた? アルマがまた新しいオスをつかまえたって」
「え、嘘、またぁ!? 今度は誰?」
「それがさあ……」
少女たちが、ことさらに刺激的なガールズトークに花を咲かせ始め、自分たち──たぶんにルロイへの関心──がそれたと分かると、シェリーは、ちょっと緊張がほぐれた心地になった。肩を上下させて、ふ、と息をつき、少し照れ笑いする。
気を取り直して、再び川縁に身をかがめ、一人だけの洗濯作業へと勤しむ。
灰を溶かした上澄みの水で汚れ物を洗い、ちゃぷちゃぷと冷たい湧水でゆすぐ。しかし、洗っても洗っても仕事は終わらず、そのせいで余計に身が入らない。いつしかぼんやりとして、全然違う他事へと思いを馳せ、気が付けば作業の手が止まっている。
そんな、ちょっとした心の隙間にさえ、いつもちらちらとよぎるのはルロイのことばかり。
今日は早く帰ってくるだろうか、とか。
まさか怪我をしたりはしていないだろうか、とか。
不安になると同時に、その名前を心に浮かばせるだけで、なぜか、頭の中が、ふわふわと夢見るような心地になってしまう。
だから、いつ帰ってきてもいいように、ちゃんとお掃除して、おふとんを干して、カバーを洗って、食器を磨いて、窓辺にお花を飾って、ご飯の用意をして。夕食を前に、にこにこするルロイさんを想像して、それから。
うふふふ、と人知れず微笑みそうになって、はっ、と我に返る。
「いけませんわ、これでは」
こんもりと盛り上がったままの洗濯物の山を、うろたえた眼差しで見やる。
「さっきから洗っても洗っても、ぜんぜん減っていません」
猛然とじゃぶじゃぶし始める。でも、また、すぐに気持ちが別の処へと飛んで行ってしまう。
「ルロイさん」
そっと、しずくの落ちる手を持ち上げて、胸の上から心臓を押さえてみる。
ひんやりと冷えた手の下で、トクン、トクンと、気持ちばかりが逸る音を立てている。
ここしばらくルロイは家を空けている。ルロイだけではない。村の若者のなかでも選りすぐりの、ひときわ腕の立つ者たちが、群れを作って猟に出ている。自分たちが食べるためではない。年老いて狩りが出来ない者、乳飲み子がいて出歩けない者、そんな仲間たちに獲物を運んでやるためだった。
バルバロは、姿形こそ似てはいるが決して人間ではない。
かつては彼らをして化け物だ、奴隷だ、家畜だ、害獣だ、と――
ずっとそう言わしめられてきた。人間とバルバロが繰り返してきた歴史は、互いに憎しみあい、奪い合ってきた、血塗られた戦争の歴史そのものだ。
しかし、シェリーの目に映るバルバロはもう、迷信にゆがめられたかつての姿ではない。
月と森の民、バルバロ。月に焦がれ、夜をひた走り、森を縦横無尽に駆けめぐる森の支配者。獲物を狩る目は野獣のそれだが、ちいさいもの、花や小鳥たちを愛ずる微笑みは、驚くほど優しい。
でも、やはり。
今はまだ漠然として、形にもなっていないモヤモヤに過ぎないけれど、でも、いつか――
その、いつかが、何かが。胸の中で大きな重しとなって、次第にもてあますようになって、やがてはどうしたらいいか分からなくなりそうな気がする。
押さえた手の下にもどかしくつっかえた、小さな不安。
誰にも言えない、自分だけの──シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティという名を持つ王女の秘密を。
いつか、誰かに、暴かれてしまうのではないかと思うと、突然息苦しいような、高い塔の小部屋に閉じこめられたような、そんな心持ちになって。
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