第14話 しっしっ

 シェリーは反射的に身をひるがえした。ルロイが背後で何か怒鳴っている。

 構わずに走る。どこへ向かっているのかまったく分からない。ただ、逃げた。胃の底から嗚咽まじりの恐怖がこみ上げてくる。喉の奥が嫌な感じにねじれそうだった。

 夜の森を駆け抜ける。

 怖い。

 バルバロは、やはり怪物だ。夜の闇に乗じて近づいてくるけものだ――

 目の前に、光が見えた。

「あ……」

 ゆらゆらと動いている。もしかしたら、誰かがシェリーの不在に気づいて助けに来てくれたのかもしれない。そう思ったとたん。

 記憶の底にささっていた棘が、ふいに、ざらついた赤い血を流した。


 そんな子、捨ててしまいなさいな。


 シェリーは雷に打たれたようにその場で立ちつくす。

 もう、誰も、追ってはきてくれない。

 もう、誰も、蝶よ花よと、甘やかしてなどくれない。

 捨てられたのだ。

 まるで、ごみのように。


 荒々しく木々を踏み越えて、駆け寄る足音が聞こえてきた。背後から迫った影がシェリーにそっと触れる。

「突然走ったりするなよ。また怪我するぞ」

 苦笑いを含んだルロイの声がした。シェリーは嗚咽をこらえ、見上げた。

「落ち着いて、よく見ろ」

 ルロイが笑った。

「みんな俺の友だちだ」

「ともだち……」

 シェリーは、おずおずと顔を上げた。

 いつの間にか、周囲をバルバロに取り囲まれていた。皆、驚くほど普通の格好をしている。人間の狩人と同じだ。毛皮の縁取りが付いたごわごわの胴衣を身につけ、ごついベルトをしめ、岩を平然と踏み越えて行けるような頑丈なブーツを履いている。違うのは、帽子から三角の耳が飛び出していたり、尻尾がゆらゆらと揺れていることぐらいだ。

 灯りを手にした一人が、声を掛けてきた。その様子はどれもみな、驚くほどに表情豊かで、怖いぐらい、に見えた。


「ルロイ、誰だよこの子。うわわ金髪じゃん、すっげぇ可愛い! 触っていい?」

「ダメだ」

「柔らかそう! それにちっちぇえなあ! くんかくんかしていい?」

「ダメったらダメだ。てめえらみたいなくっせえケダモノが近づくんじゃねえ。こいつが怖がってるだろ」

「何だよこいつって偉そうに。こいつとか言ってやんなよ、こんなに可愛いのに」

「うっせえ、こいつのことをこいつって言って何が悪い」

 ルロイは折り取った枝を棒代わりにして、やいのやいのと騒がしく群がってくるバルバロたちを、しっしっ、と追い払っている。

 皆、笑っている。ルロイもまた、仲間に対しては粗暴な口の利きかたをしていたが、やはり笑っていた。

 ルロイと同じ黒髪、黒い瞳。純朴ながら剽悍に引き締まった顔立ち。それは、誇り高い森の民の佇まいであって、決して、怪物の群れなどではなかった。

 彼らの姿を見上げているうちに、突然、わけもなく涙がこぼれた。

 ルロイはあわてて枝を放り投げた。振り返る。

「どうした、大丈夫か、おまえ。眼に土でも入ったか」

「いいえ」

 シェリーは泣き顔を見られないよう、顔をそむけた。指の背で目の縁をぬぐい、微笑みを取り戻す。

 涙が不安の霧を吹き払う。そこには曇りのない笑顔があった。


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