【完結】お月様にお願い!〜 天然王女さまと発情狼のぜんぜんじれったくない恋のお話 〜

上原 友里@男装メガネっ子元帥

お月様にお願い!

1

第1話 バルバロの森

 蝶番のきしむ音がした。気怠げに扉が開く。

 黒と金の緞帳が視線を遮る。天井も壁も葬礼の黒。

 掛け渡された壁布はラメに彩られ、まるで流れ落ちる夜のよう。

 迷路のように組み合わされた布のアーチをくぐり抜ける。奥の壁に楕円鏡が掛かっていた。すすけた鏡だ。額縁の金メッキが剥げて黒い地金がのぞいている。

 人影が無造作に鏡へ近づく。漆黒のガウンを身につけた女だ。粒真珠の胸飾りが光る。顔は影になっていて鏡には映らない。

 鏡の横には、絵入りの新聞記事がピン留めされていた。肖像画の複製を掲載しているらしい。ふわふわの金髪、純白のドレスに王族の証である赤のローブ姿。肩から深紅と金のガーター章を掛けている。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界でいちばん幸せな女は、だあれ……?」

 歌うような声音で言う。黒く塗られた爪が鏡をなぞった。官能的な吐息に、鏡が白く曇る。

「なんて、ね」

 絵に深々とナイフが突き刺さった。



 かさり。

 風が草を揺らしている。

 かさり。

 くろぐろと密集して茂った木々の狭間から、金色の木漏れ日がちらほらと降り落ちて、枯れ葉の積もる地面に横たわるものを照らし出している。

 白く光る風。

 土のにおい。

 かすかな、血の臭い。

 何かが、誰かが、倒れている。ぴくりとも動かない。捨てられている。

「だ、だれかいる?」

 バルバロの少年、ルロイは怯えの混じった眼で四方を見渡した。声を押し殺す。

 鼻をくんくんと言わせる。何かが臭う。だがそれは獣の――獲物の臭いではない。

 いくつもの臭いが、色の付いた軌跡となって空気の渦に残されている。

 人間の臭いだった。どうやら、人間がこの森に入り込んできたらしい。ルロイは鼻を注意深く木々の根元へと寄せた。

 鉄と革の臭い。

 火薬の臭い。

 燃えた毒の臭い。

 それから、いらいらしそうなほどに甘ったるい人工の香水。

 ルロイは喉の奥を恐怖の唸りで震わせた。本能的な苛立ちがこみ上げる。

「人間の臭いだ……どうしてこんなところにまで!」

 毒々しいまでに文明の入り交じった臭いの粒が、そこかしこの葉に降りつもるようにして残っている。

 どのようにして踏み込んできたものか。木々は轍の跡で踏みにじられ、枝を落とされ、踏み荒らされている。

 バルバロの森。人間たちは、いまだ荒々しい自然が息づく険しい山地を、そこに住まうものの名を取ってそう呼ぶ。人間たちはなだらかな土地に住み、山から石を切り出して文明という名の礎を組み上げた。堅牢な都市を築き、火と鉄を用いて自然を焼き払った。住処を追われたバルバロは平野から追われ、森の奥深くへと隠れ住んだ。いくつもの岩山を越え、あるいは激流を乗り越えなければ到達できない秘境。森は、世界から押しこごめられた蛮族の地だ。

 その森に。

 踏み込んできた人間がいる。

 ルロイは緊張して詰めたままだった息をようやくゆるめた。伏せていた身を持ち上げ、じりじりと”それ”に近づいてゆく。

 ”それ”は、まだ、動かない。

 白い肌に、日が差している。かすかな罪の香りが漂った。

 薬の臭いだ。意識を奪う薬。

 人間が、子どものバルバロを奴隷として狩り集めるときに使うあの薬の臭いだ。嗅ぎ慣れた――嫌な臭い。

 首に巻かれた鎖が、ちゃり、と音を立てる。

 音を立てないよう鎖を押さえながら、ルロイは鼻に嫌悪のしわを寄せた。

「まさか、人間? じゃないよな……?」

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