ふるべゆらゆら
櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)
第壱話 斎宮に潜む霊
斎宮の朝
ふ
る
べ
夜中にふと、目を覚ますと、横に知らない男が寝ていた。
男は顔を天井に向けたまま、瞬きひとつしない。
何を見ているのだろう。
天井には何もない。
恐ろしいな、と思いながらかも、誰に言えないで居た。
だって、此処は神の宮だから――。
「今日は何もないと申しましても」
いきなり説教か。
まだぼんやりとしている頭で、成子(なりこ)は命婦の言葉を聞く。
なすがままに乳母に髪を梳かれていた。
乳母といっても、自分を育てた乳母ではない。
此処、斎宮に住う斎王の世話をするために、はるばる都からついてきた女たちだ。
目覚めたときから、毎朝、何処からともなく、涼やかな木の薫りがしてくる。
この斎宮の建物自体が放っている匂いだと思われた。
「一応、毎朝、それなりの儀式はあるわけですから」
髪を梳かれながら、目の前に置かれた根こじ鏡台を見、成子は、ぼそりと呟いた。
「……消えて」
「何か申されましたか?」
いやあ、別に、と笑う。
此所は神の宮、伊勢神宮に天皇の代わりに仕える女の住まう場所だ。
人は私を斎王と呼び崇め奉る。
だが、鏡の中の私はいつも、この世界を絵空事のように眺めているだけだ。
祈りの時間を終えた成子は、庭に出る。
特にすることもないので、ぼうっとそこを眺めていた。
気持ちの良い風に吹かれながら、歌のひとつも詠んでおいた方がいいか、と思う。
都から来た者たちをもてなすときに必要だからだ。
歌をその場で詠むといっても、結構思いつかないときもあるので、下詠みは必要だ。
そんなことを考えながら、成子は高欄に手をかけ、庭の池を見下ろす。
すると、斎王の居室周辺を警護する男が現れた。
藤原真鍋(ふじわらのまなべ)だ。
警護といっても、半分飾りに近いので、装束も身に着けているものも、それで動けるのかな、という感じだ。
後ろの矢羽根はいらないのではなかろうか。
斎王の側に置く者は、容姿も吟味されているのか、見栄えのしない者は居ないが、中でも、この真鍋は特別だった。
がっしりとした体躯に整った顔。
それに知的な目許。
まあ、眺めてる分には悪くないが、愛想がないな、と評しながら、成子はそこに立っていた。
御簾の内に戻るか、扇で顔を隠さなければ。
そう思いながらも、反応が鈍い。
昔はあまり人気のない屋敷に住んでいて、今はこの隔離された斎宮に住んでいる。
顔を隠さねばならない、という意識がどうしても薄くなる。
婆様は自由にさせてくれてたからなあ。
私が斎王になるなんて、誰も思ってもいなかったことだし。
天皇の血は引いていても、母も既におらず、これといった後ろ盾もないので、ぼんやりと祖母の屋敷で過ごしていた。
そのうち、ぼちぼちの家から適当な婿をとるのだとばかり思っていたのだが。
私も、婆様も。
それから――。
しかし、真鍋が現れると、奴らが引くな、と思った。
斎宮に来たとき、驚いたのだが、清浄であるべきこの地に、何故か、不浄な霊が出る。
そして、更に驚いたことには、此処の誰にもそれが見えていないということだった。
霊感があるものを連れてきているわけでもないので、仕方のないことなのかもしれないが。
まあ、見えていても、此処で霊がウロウロしているなんて不敬なことは言えないだろう。
今の帝に問題がある、ということになってしまうかもしれないからだ。
そんなことを考えている間、ずっと真鍋と目が合っていた。
隠れない私も私だが、目を逸らさないこいつもこいつだな、と思う。
「真鍋」
と呼びかけると、
「顔を隠さなくとも良いのですか」
と訊いてくる。
いや、そう思うのなら、お前も目を逸らせ、と思ったが、真鍋は実直な性格そのままに、真っ直ぐに見つめてきた。
その黒い双眸にどきりとしないでもない。
だが、此処は斎宮で、私は斎王だ。
そう思い、成子は平静を装って話しかけた。
「貴方に顔を隠したところで、どうせ、御簾の内でも、几帳の向こうでも、霊たちが私の顔を見ているわ」
命婦たちに霊の話をしたことはなかった。
だが、何故だか、この真鍋にはしていい気がしていた。
彼を見た瞬間、逃げ出す霊が結構居るからだ。
何者なのだろうな、この男、と思う。
霊は見えているような気がするのだが。
私と一緒で語らないけど、と思いながら、成子は真鍋を眺めた。
ふと思う。
都では暇な女たちが美形の坊主の読経を眺めに行っているが、今なんかそれと似た感じだ、と。
斎王は神に仕える身。
恋などしてはならない。
歴代の斎王も、こうして、身の周りに美形の警護するものを置いて暇つぶしに眺めていたりしたのだろうか。
「もう行ってもよろしいですか?」
と大真面目に訊いてくるので、
「どうぞ」
と返した。
そのまま、高欄にすがって意匠を凝らした庭を眺めていると、しばらく行った真鍋が振り返り、まだ、外に出てるのか、と言うように、大きく溜息をついたようだった。
「なにしてらっしゃるんですか。
またそんな端に出て」
振り返ると、在原道雅(ありわらのみちまさ)が現れた。
若いが優れた歌人で、成子は一応、彼に師事していた。
文武両道優れていて、弓の腕もなかなかだそうだ。
だが、見た目は、ひょろりとしていて、とてもそのようには見えない。
「いや、……暇だから」
そう言ったとき、軒下から手が覗いた。
足許の床に手をかけようとする。
まるで、そこから這い出そうとしているかのように。
何か居るな、と思いながら、道雅の言葉を聞き流す。
「聞いておられますか?」
聞いてる聞いてる、と適当に返事をすると、道雅は溜息をついて、一緒に下を眺めた。
「何が居るんですか?」
うーん、と適当に誤摩化すと、
「いつも猫みたいに、誰も見てないところを目で追ってらっしゃいますよね」
と言われる。
「光じゃない?」
「光?」
「鏡とか金箔に反射して、光が天井とかで、ゆらゆら揺れたりするじゃない」
それを見てるときがあるから、と言ってみたのだが、
「そんなもの、貴女がきょろきょろしておられるときに、見えたことはありません」
と切って捨てられてしまう。
可愛い顔のわりに厳しいやつだ、と思った。
「以前から思っていたのですが。
斎王様は、霊が見えるのではないですか?」
「見えないわよ、そんなもの」
と言うと、道雅は声を落として言う。
「そうですか。
私には見えます」
「今、何が居るんですかって訊いたじゃないの」
見えている人間が、そんなことを言うはずがない。
「その霊と波長が合わなかっただけです。
他の霊は見えています」
成子は道雅の足許を見、
「今、あんたの足首を掴んでいるそれは?」
と訊く。
「……み、見えてるに決まってるじゃないですかっ」
脅すための嘘だろうが、調子を合わせてやる、という口調で道雅は言ってきた。
だが、成子は、そこを見ながら言う。
「本当に居るよ」
その言い方が真に迫っていたのか―― いや、本当なのだが、道雅は、ひっ、と悲鳴を上げ、飛び退いた。
「はめましたねっ」
と欄干に上りかねない勢いでしがみついている道雅は、いろいろ深読みしすぎて叫んでくるが。
いやいや、本当に掴んでるんだが、と思ったが、指摘してもどうにもならないし、言わない方が話がうまく進みそうなので、黙っていた。
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