第32話『めざめ』

 どこかに足を付けているようなことはなく、ただふわふわと浮かんでいるような感覚に浸っている。

 俺の目の前に見えるのは上条さんの姿だ。優しい微笑みを見せている。俺に託したことをちゃんと見届けられたからだろうか。

 しかし、上条さんの姿が段々と小さくなっていく。何も言わずに微笑んだまま、少し手を振るだけで。

 やがて、彼は闇へと消えていったのであった。



 目を開けると白い天井だけが見える。

「雅紀!」

「お兄ちゃん!」

 視線だけを横に向けると、涙を浮かべて喜ぶ和奏と百花の顔があった。

 一瞬、さっきの続きかと思ったけれど、サッカースタジアムの屋根はとても高いところにあるし、第一に芝生がこんなに柔らかいわけがない。しかも、丁寧に胸のあたりまで布団が掛けられているし。

 何にせよ、俺は生きているんだな。

「ここはどこなんだ?」

「春エリアの大ホールにある医務室だよ。美波さんの後ろにいた人達がお兄ちゃんのことをここまで運んでくれたの」

 ということは茶道部の後輩部員の人達も協力してくれたわけか。今度、茶道室で会ったときにでもお礼を言っておかないと。

 俺は力を振り絞って体を起こす。

「無理しちゃ駄目だよ、お兄ちゃん」

 百花が俺の体を支えながら言う。

「大丈夫だって」

 と言いつつも、百花が支えてくれないとこの状態が保てないんだけれど。百花は笑っているけどきっとそれが分かっているんだろうな。

「そういえば、美波と光の姿が見えないな。あと、栞ちゃんも」

「椎葉美波は雅紀が倒れたことに相当ショックを受けていた。雅紀が単なる過労で倒れたことを知っても、ごめんってずっと言っていた。私に対しても。光が彼女のことを宥めて上条栞と3人で帰っていった」

「でも、美波はやっと事実を受け入れることができたんだな。良かったよ」

「……うん」

 どんなに遅くても、自分の過ちに気づけることが大切だ。3年の時を経て、美波もそれに気づくことができた。だから、彼女はもう大丈夫だと思う。きっと、すぐにいつもの美波に戻るだろう。

 あと、俺は過労で倒れたのか。おそらく、真の力は普段よりも大きな力で、その分体力の消耗が激しかったんだろうな。倒れたのも燃料切れの所為ってやつか。

「和奏先輩、ありがとうございます。ずっとお兄ちゃんの側についていてくれて」

「雅紀は私の盟約者。側にいるのは大切なこと」

「そう……ですか」

 そう言うと、百花は一息ついて、

「それじゃ、和奏先輩。お兄ちゃんの側にいてもらえますか? お兄ちゃんと和奏先輩の着てきた服を取りに行ってきますね。もうイベントは終わってしまったみたいですし、ここからなら10分ちょっとで取りに行けると思います」

「イベントが終わったって、今何時なんだ?」

「5時過ぎだよ」

 あの手紙の制限時間は午後2時だったから……ということは、3時間近く意識を失っていたのか。

 百花と和奏はずっと俺の側で意識が回復するのを待ってくれていたんだ。過労で倒れたと診断されても、心配を掛けたことには変わりないよな。2人は俺が発作で倒れたときを見ていたわけだし。

「ということで行ってきますね。お兄ちゃん、冷たい飲み物でも買ってこようか?」

「ああ、あの時に結構汗かいたからな。頼むよ」

「分かった。和奏先輩、お兄ちゃんを宜しくお願いします」

「うん。あまりゆっくりでいいからね」

「はい」

 百花は俺の体を和奏に預けて、医務室から出て行った。

 医務室の中を見てみると、どうやら俺以外は誰もベッドを使っていないみたいだ。そして、勤務する先生もどこにもいないし。ということは、和奏と2人きりか。

「ごめんな、和奏」

「……どうして謝るの?」

「だって、あの時……百花の所へ和奏を一緒に連れて行かなかったから、和奏をあんな危険な目に遭わせちゃったんだ」

 俺がそう言うと、和奏はすぐに首を横に振る。

「でも、今日のことがなかったら死刑執行人が椎葉美波であることも分からなかった。上条先輩の気持ちも知ることもなかった」

「和奏……」

「それに、私も勇気を持つこともできなかったと思う」

「……勇気?」

 何を言っているんだ?

 和奏は今までも勇気を振り絞って、俺に色々と話してくれたじゃないか。まだ、何か俺に明かしていないことでもあるのか?

「雅紀、ちょっと横になって目を瞑ってほしい」

「ああ、分かった」

 俺は再びベッドの上で仰向けになり、目を閉じる。

 何かがこすれる音が俺の横で聞こえている。いったい、和奏は何の勇気を持つことができたというのだろうか。

 意識を取り戻したといっても、体力はあまりない状態だ。このままだと照明の温もりがちょうど良くて眠くなってしまうんだけれど。早く目を開けさせて欲しい。

 そして、暫く沈黙の時が流れ、

「もう、いいですよ」

 という言葉が聞こえた。何となくいつもと声色が違うけれど和奏、だよな?

 体を何とか起こして、ゆっくりと目を開くと、


「これが私の本当の姿です。……雅紀さん」


 恥ずかしそうに微笑む美少女がいたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る