第18話『おまじない』

 俺は椎葉のことを抱きしめる。右手で彼女の頭を俺の胸に押しつけるような感じで。

「椎葉は頑張ってるよ。クラス委員長もそうだし、部活動だって。お前がこの先誰にどう言われようと俺はお前の頑張りを認める」

 何だかんだで椎葉を一番近くで見てきた男子だからな。

 こいつ、結構柔らかくて温かいな。あと、身長が高いしテニスもやっているのでしっかりとした体つきかと思ったのだが意外と細身だ。まあ、男の俺が抱きしめているからかもしれないけど。

「でも、たまには休んだっていいんじゃないか。今みたいに、誰かに不安なことを話してもいいんだぞ。俺で良ければ遠慮無く言ってくれよ。力になるからさ」

 心臓のためにも、抱きしめるのは勘弁してほしいけれど。

 普段、椎葉は弱音を余り吐かないタイプなので、たまには誰かに相談したり愚痴ったりしても良いと思う。2年連続クラスメイト兼隣人である俺にだったら彼女も遠慮無く話せる気がする。

 椎葉の頭を優しく撫でると、彼女は小さく笑った。

「じゃあ、桐谷君にお願いが1つあるんだけど」

「なんだ?」

「私のこと、名前で呼んで欲しい。美波って」

 こ、こいつもかよ。呼称に関する注文はこれで昨日から三連発だぞ。女子って本当に呼ばれ方を気にするんだな。

「栗栖さんや澤村さんは名前で呼ばれているのに、私だけ苗字って不満だったの。桐谷君とは一緒にいる時間が一番長いのは私なのに」

「確かに、去年から一緒なのはお前だけか」

「だから、私のことも美波って呼んで」

「分かった。……美波」

「うん、いいね。桐谷君にそう呼ばれると嬉しいかも」

「それは良かった。そういえば、お前は俺の呼び方を変えなくて良いのか?」

「……名前で呼べる勇気がまだないの。だから私は桐谷君のままで」

「そうかい」

 自己中心的だな。人には呼び方を指定しておきながら、自分は呼ぶ勇気がないから今のままにしておくって。些細なことだから別にいいけれどさ。

 さてと、そろそろ抱擁を止めたいけれど。これ以上やったら油断して心臓発作になりかねないし、それにここは人通りが少ないけど誰かに見られる危険はあるし。でも、美波から抱擁を解いてくれないと悪い気がするし。どうしよう。

「何だかこうしてると、恋人同士みたいだね」

「そ、そうだな……」

 そんなことを言わないでくれ。美波は魅力的だから下手すると興奮してしまう。

「私、実は男の人と抱きしめ合うのが初めてだから凄く緊張してる。きっと、心臓もドキドキしてると思う」

 彼女の言うとおり、耳を澄ませば美波の心臓の音が聞こえる。音がする度に鼓動が俺の体に伝わってくる。こういう要素も危ないかもしれない。

「段々と恥ずかしくなってきたしもう止めたい気持ちもあるけど、どうしてかな。このままずっといたい気持ちも負けてないの」

 その気持ちを体現するかのように、美波は両手で俺の背中をさすってくる。練習試合の疲れもあるのか、荒くなった彼女の吐息が俺の胸元に掛かってくる。

「このままずっと一緒にいると、桐谷君のことが好きになっちゃうかも」

 と、甘い声で美波はそんなことを言ってくる。

 まずい、このままだと本当に性的興奮のせいで、心臓の鼓動が早くなりすぎて発作を起こしかねない。

「……な、何言っているんだろうね、私。もう、十分だよ。暑くなってきちゃった」

「あ、ああ……」

 俺たちは抱擁を止める。離れた途端に幾分涼しく思えてきた。

 何とか興奮は最低限に留めることができた。まったく、俺の近隣に住む奴らはどうして粒揃いな女子ばかりなんだろうな。

 抱き合った後のこの空気、互いに見つめ合うだけでどんな言葉を掛けても変になりそうな気がした。でも、何か話さないと。

「あのさ、美波」

 と、話しかけたのは良いけれど内容を考えてなかった。

「なあに?」

「え、ええと……」

 とにかく、些細なことでも良いんだ。俺はとりあえず先ほどの練習試合のことを必死に思い出す。

 思い出していく中で俺は1つ、特に印象深く記憶に残っていることがあった。

 あの時に美波が行った仕草。あれはどういう意味があったのだろう。気になる。

「胸の所、掴んでいたよな」

「えっ?」

「部長がマッチポイントを迎えただろ。その時に美波は体操着の胸の部分を右手で力強く掴んでいた。あれって、何か意味があるのかなと思って」

 相手がマッチポイントを迎えた。つまり、重要な場面だ。その時に服の胸の部分を掴むというのは、サッカーで有名な本多選手がやっていることだ。美波の場合はたまたまやっただけかもしれないけど、妙に気になったのだ。

 俺の問いに美波はそっと微笑む。

「おまじないだよ」

「……おまじない?」

「そう。ああいう場面はどうしても焦りが出てくるの。そういう時には、胸の部分を握りしめながら深呼吸をすることで、少しでも気持ちを落ち着かせるようにしてる。さすがにあの時はそれだけじゃ気持ちが切り替わらなかったけど」

「その時に俺と光の応援が聞こえて」

「うん、そうだよ。でも、大抵のときは胸を握りしめるだけで何とかなるの」

「それって、誰かがやっていたのを見て真似たのか?」

 俺がそう言うと、美波は微笑みながらも少し俯いてしまう。

「……そう。私が憧れていた人がね……」

「それって、サッカー日本代表の本田選手のことか?」

「違うわ。前に憧れてた人。その人もサッカーをやっていたわ」

 今、一瞬だけど俯いた気がする。気のせいだろうか。

 憧れていた人、と美波が言うから途端に俺が憧れている人の名前を口にしてしまった。これはちょっと恥ずかしい。

「すまなかったな、変なことを訊いちゃって」

「ううん、いいよ。それに、桐谷君に抱きしめてもらって元気出た」

「……そうか。それなら良かった」

「じゃあ、またね。学校は火曜日だけど、ゴールデンウィーク中のどこかで一緒に過ごせると嬉しいな」

「光も同じようなこと言っていたな。あいつ、みんなでどこかに行くんだって張り切ってたぜ」

 光だったら何か提案がありそうだな。もしかしたら、意外にも和奏からどこかへ行こうという誘いが来るかもしれない。俺もずっと家にいるだけじゃつまらないから、日帰りで行けるところでも探してみようかな。

「部活があるかもしれないから行けるか分からないけど、何もなかったらその時は一緒に出かけましょう」

「ああ、そうだな」

 ゴールデンウィーク中は合宿をする部活もあるらしい。今の美波の話し方だと女子硬式テニス部の合宿はないだろうけど、学校で部活がある可能性は高いだろう。百花を入れて五人でどこかへ出かけられれば何よりである。

 俺は美波と別れて、家の中に入った。

 百花はまだ帰ってきていない。料理部の活動があるのだろうか。それとも永倉駅の方へ行ってどこかの店に寄ってきているのか。

 自分の部屋まで行ったところで、携帯が振動する。

 すぐに携帯を取り出して画面を見ると新着メールが1件。差出人は『栗栖和奏』となっている。何かあったのか?

 メールの件名は『招待』と書かれている。そして、俺だけではなく光と美波にも届くようになっている。とにかく本文を読んでみるか。


『来たる4月28日(日)に、皆とある祭典へ行きたい。

 祭典の名はシャンサインクリエイティブ。

 その祭典では同人誌を販売するほか、コスプレという名の仮装も行っているらしい。そこで、私たちはコスプレ参加をしたいと思う。コスプレ参加をする費用は一切なしで衣装も1000円払えばレンタル可能とのこと。

 会場となるシャンサインタウンはここから電車に乗って1時間弱。1日かけて出かけるにはちょうど良いと思うが、どうだろう?

 一緒に行ってもいいと返事をくれると嬉しい。いずれにせよ、明日の夜までに返信をお願いする。


 From 栗栖和奏』


 どうやら、お出かけのお誘いらしい。死刑執行人のことじゃなくてほっとした。

 すぐにパソコンを立ち上げて、インターネットで『シャンサインクリエイティブ』と検索し公式サイトにアクセスする。どうやらこのイベントは日本有数の規模を誇る同人誌即売会らしい。会場も東京23区の海沿いにあり、和奏の言うとおりここから電車で1時間くらい乗れば行けるところだ。

 確かに1日掛けて出かけるには最適の場所だな。コスプレの経験はないけれど、1つの楽しい思い出を作るにはいいんじゃないだろうか。

『俺は行く』

 と、俺は和奏にさっそく返信をした。

 すると、和奏は真面目なのかすぐに、

『分かった。詳細はまた後で』

 と、彼女から返信が来た。

 正直、意外だった。和奏がどこかに行こうと言うなんて。しかも、俺と2人だけではなくて光や美波も誘うなんて。

 まあ、最悪2人だけで行くとしても、この手のイベントはあまり行ったことがないので新鮮な気持ちで楽しめそうな気がする。

 今年のゴールデンウィークはなかなか楽しくなりそうだ。

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