第17話『抱擁』

 あの試合で今日のテニス部の活動は終了だったらしく、俺と光は椎葉と一緒に帰ることになった。

「いや、凄かったね。椎葉さん」

「ありがとう。でも、2人のおかげよ」

 話題はさっきの椎葉の試合で持ちきりだ。あの試合が素晴らしかったことは終盤から見た俺でも分かった。最初から見られれば良かったとも思うほどだ。スポーツ観戦でこんなに胸が熱くなったのは、3年前のワールドカップ以来かもしれない。

 学校から自宅までの約10分間、光と椎葉は2人で話が盛り上がっていた。俺も話に入りたい気持ちはあったけど、2人がこんなに楽しく話しているのを見るのは初めてだったので、俺は横でずっと眺めていた。

 気づけばもう椎葉の前まで辿り着いていた。

「今日は凄く楽しかったよ。雅紀君にはお茶を振る舞えたし、椎葉さんの試合は最後の方だけだったけどとても見応えがあったし」

「桐谷君と澤村さんが一緒にいたのってそれが理由だったんだ」

「ああ、昨日の昼休みに光と約束していたんだよ」

「椎葉さんも近いうちに茶道部に来てほしい。僕がお茶を振る舞ってあげるよ。今日の勝利を祝してね」

 何だか光らしい祝福の仕方だ。

「ありがとう。楽しみにしてる」

「それじゃ、僕はここで失礼するよ」

「じゃあな、光」

「また明日ね、澤村さん」

 光は手を振って家の中に入っていった。

 彼女の姿が見えなくなると、椎葉は苦笑いをして俺の方に振り返る。

「ごめんね、ずっと澤村さんとばかり話しちゃって」

「気にしないでくれ。それに、終盤だけだったけど椎葉には凄く良い試合を見させてもらったから。勝ったな、おめでとう」

 椎葉に称賛の言葉を言うと、彼女は照れているのか顔を赤くした。

「別に、褒められるほどのことじゃないよ。単なる練習試合だし。部活が始まって部長から突然、試合形式で私の練習に付き合ってくれないかって言われて。それで始めただけだったのに、気づいたらコートの外側に人が集まってきちゃって。去年の公式戦よりもずっと緊張したわ」

「それにしてはかなり接戦だと思ったけど。相手は部長なんだろ。互角の試合ができるなんて凄いと思うけどな、俺は」

「……途中までは私がリードしていたんだけど、やっぱり部長の方が凄かった。体力も精神力も私とは全然違う。逆転されて、マッチポイントのところまで追い詰められて。実力の差を見せつけられたと思ってもう諦めてた」

 意外だ、そんな風に思っていたなんて。

 部長がマッチポイントを迎えたとき、俺には椎葉がそれまでと変わらず凛々しい姿勢で試合に臨んでいるように見えた。疲れが顔に出ているなとは思っていたけど。

「不動のエースと呼ばれる椎葉でもそう思うことがあるんだな」

「そんなの周りの人が勝手に言ってるだけだよ。私はテニスが好きなだけだし、まだまだ未熟なところだってあるわ」

「……そうか」

「でも、あの試合に勝てたのは――」

 ぎゅっ、と。

 椎葉は俺のことを抱きしめ、俺の胸の中に顔を埋める。

「桐谷君と澤村さんが応援してくれたからだよ」

 そう言うと、彼女は顔を離して俺のことを上目遣いで見る。

 練習試合を終えてすぐに帰ったせいか、椎葉の髪から微かに彼女の汗の匂いがした。それがやけに俺の鼻腔をくすぐってくる。もちろん、彼女自身の甘い匂いも感じる。

「マッチポイントになったとき、椎葉に何かしてやれないかって思った。コートの外からでも椎葉に手助けできる方法はないかって。でも、その時にお前と目が合った。声を掛けたのはその時に不意に思いついたからだよ」

「それでも嬉しかった。桐谷君と澤村さんが、私のことを応援してくれているんだって分かって安心したし、勇気が出たの」

「……そうか」

 椎葉の力になれたのであれば、それに越したことはない。

「ねえ、桐谷君」

「なんだ?」

「お礼と言っては何だけど、私のこと抱いていいよ。ううん、抱きしめて。抱きしめてくれればこれからも頑張れそうな気がするから。でも、これじゃお礼じゃなくて、単なる私の我が儘になっちゃうね」

 両手で俺の背中を優しくさすってくるあたり、俺を誘っているように思える。

 光も十分魅力的だけれど、椎葉だってかなり魅力のある奴だ。顔は可愛いしスタイルは抜群だし、性格だっていい。さすがはクラス委員長だと思えるし、クラスの男子の中で断トツの一番人気なのも頷ける。男子は10人くらいしかいないけれど。

 まずい、さっきの光のこともあって興奮しやすくなっている。ここで椎葉のことを抱きしめたら、性的興奮による心臓発作になる恐れもある。どうすればいい。

「……私のこと、嫌いなの?」

「そんなわけないだろ」

 彼女の弱々しい声が俺の本能を刺激していく。やばい、凄く可愛い。普段から頼りになる椎葉がこんな汐らしい態度を見せるなんて。ギャップを見せる女性に弱いという男が多いのは分かる気がする。

「……良かった。私ね、今みたいに毎日学校生活が送れるのは、1年の時から桐谷君がクラスメイトだからなんだよ」

「それって、どういうことだ?」

「高校に入学するのと同時にここに引っ越してきたじゃない。慣れないところで暮らし始めて、同じ中学校から進学した人も全然いなかったから不安で仕方なかったの。でも、隣に住んでいる桐谷君が桃ヶ丘学園に入学して同じクラスになったから、安心して委員長もできたんだよ」

 椎葉と初めて出会ったのは入学直前、彼女が引っ越しの挨拶で家に来たときだった。その時互いに桃ヶ丘学園に入学することを知り、同じクラスになれればいいねと彼女に言われた記憶がある。椎葉はあの時から全然変わっていない上品な女の子だ。

 今の話を聞くとさっきの言葉も頷ける。椎葉は本当に、俺や澤村の声援があったからこそ練習試合に勝つことができたということ。彼女の我が儘、いや……彼女へのご褒美をあげるべきかもしれない。

 平静を保てれば大丈夫だ。相手はただのクラスメイトでお隣さん。今こそ紳士的な男になるんだ。

 俺は意を決し、椎葉のことを抱きしめるのであった。

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